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貧困太りと裕福痩せ [貧困]

スローライフやロハスが推奨されるようになって、どれくらいだろう。なんとなく良い目標なのだろうとは思いつつ、どうにも乗り切れない自分がいる。
例えばスローライフやロハスを実践するための道筋として紹介されるのは、環境への意識を高めるとか、経済優先の考え方を改めるとか、食の安全に興味を持ちましょうといった、いわば精神論が主流である。
もちろん、それはそれで大切なことだ。しかし、意識改革だけでは、スローライフもロハスな生活も実現されない。
私が契約社員として会社勤めをしていた頃、いつも夜10時過ぎに帰宅し、翌朝は7時に家を出て、昼休憩は30分あるか無いかだった。そして給料は安かった。そんな状況の中で食べられる物といえば、マックに代表される安い早いのジャンクフードか、せいぜいコンビニ弁当である。
環境や食の安全への意識がいかに高くても、それを実践する金銭的・時間的余裕が、ビンボー人には無い。長時間労働を終えて夜中に帰った人間が、帰宅してから鰹節と昆布できちんとダシを取った料理なんて作れるはずも無い。
そこそこ裕福な人間だけが、安全で高価な有機野菜と国産牛を使って、きちんとダシをとり、カネと時間のかかる「安全なスローフード」を口にすることが出来るのである。

もちろん、ジャンクフードがこれほどまでに広まった理由は、他にもある。
添加物には習慣性があるため、食べれば食べるほど、同じ商品がお腹いっぱい以上に欲しくなる。添加物を取り続けることで、アミノ酸化合物やたんぱく加水分解物に代表されるうまみ調味料(という名の添加物)が入っていないと「おいしい」と感じない舌になってくる。そこそこ裕福でも、食品の質や安全性より安さを基準に食品・食材を選ぶ人も多い。
だが一方で、ジャンクフードを作る材料や労働を提供しているのも、それを消費しているのも、多くの場合は貧しい人々であることも事実だ。貧しい発展途上国の提供した材料で、自給の安い非正規雇用者が調理し、自給の安い非正規雇用者が販売し、所得の低い人々がそれを消費する。見事なまでの「貧困者ループ」がここにはある。
実際、世界の「肥満者」の実に1/3は発展途上国の人々であるとのデータもある。安全ではないが安くて早く手に入れることの出来るジャンクフードを、多くの貧困者が「食べさせられて」いるからだ。貧しい人々はもちろん、フットネスに行ってダイエットをするような時間・金銭的余裕も無い。
「超え太る」とは裕福な者を評して使われる言葉だが、昨今では「貧困ゆえに太る」ことすら起こり得るのだ。

ジャンクフードが貧困者を食い物にする中で、業界の上に位置する人々だけが、その労働と消費を吸い上げ、更に富を蓄積して「スローフード」を口にする。

<参考>
【安部司インタビュー「"食品の裏側"を明らかにする」】
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/interview/62/
【ダーウィンの悪夢】
http://www.darwin-movie.jp/


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推奨されているのは「死刑」か? [死刑制度]

死刑事件において、もっとも大きく報道されるのは「死刑が求刑されたのに、異なった判決が出た」もしくは「下級審の判決を覆して、求刑通り死刑判決が出るのか」という話題だ。
一方で、死刑確定や死刑執行のニュースは扱いが小さく、特に執行に関しては、新聞ならベタ記事、テレビならアナウンサーが1~2分程度事実を伝えるだけである。キャスターやコメンテーターが、それについて意見を述べることは無い。
求刑よりも軽い判決が出た場合、つまり、検察=国の思い通りにならなかった場合が最も大きく報道され、ありとあらゆるコメンテーターが検察の主張を追認するわけで、そう考えると「国家を監視する装置としてのメディア」はどこへ行ったんだと思うものの、今回はそれが主題ではないので置く。

私はいつも、この扱いのバランスを見て、「推奨されているのは本当に死刑なのか」と思わずにいられない。
例えば、みのもんたはあれほど過激に死刑を推進し、「一人でも殺したら死んで償うしかない」「死刑は日本の文化」とまで言っているのだから、執行のニュースに対して「いやぁ、日本から凶悪犯がまた一人減りましたね。平和への第一歩です。これからもどんどん執行して欲しい」とか言っても良さそうなものだが、絶対に言わない。というか、死刑執行のニュースに対してコメントすらしない。ちょっと頭の足りないコメンテーターが、一人くらい「執行されて良かった」的な発言をしたっておかしくないのに、そういった言葉を聞いたことも無い。
結局、殺すの怖いんじゃないのか。
少なくとも、実際に人が死んだという事実に向き合う姿勢は微塵も見えない。死刑を煽るなら煽るなりに、その帰結についても責任を持つ必要があると思うのだが。

もちろん、2ちゃんねるを始めとするWEBなど、匿名性の高い分野では、死刑執行に対して賛美する風潮は多少はある。しかし、彼らが賛美しているのも、本当に「死刑」なのか。「人の死」なのか。
アメリカの死刑は、半公開処刑(被害者遺族・加害者家族などが希望する場合、及び一部のメディアは立ち会うことが可能)である。
もし仮に日本がこれをやったら、今のような死刑オッケー!ムードは一変するように思う。実際の死を目の前にして「これで良かった。正義が行われた。」とは言わないんじゃないのか。日本人はもう少し、死に対してナイーブなように思う。
その根拠は、実は死刑の現場とは別のところにある。アメリカは長年にわたり、様々な国と戦争を繰り返している。一方で国内での凶悪事件に対しては、射殺して解決することも多い。つまり、ごく日常的に「正義の名のもとに行われる殺人」を体現している。
しかし、日本は60年以上に渡って戦争をしておらず、国内で凶悪事件が起こっても射殺することは無い。つまり私たちは体験的に「正義の名のもとに行われる殺人」を、死刑以外の場面では経験していない。そのことは、かなり奥底のほうで、死生観や正義感に影響しているのではないか。
死刑の「死」がリアリティを持ったとき、今死刑を推奨している人々は、それでも惑うことなく「さっさと死刑にしろ」と言えるだろうか。
その答えが、日本でこれだけ死刑の現場が隠蔽され、隠し通されていることの理由のひとつであるようにも感じる。

<関連>
【アムネスティ 死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ「森巣 博」】
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_morisu.html
【映画「絞死刑」オープニング】
http://www.youtube.com/watch?v=mI7vZohLkYo&mode=related&search=
【死刑廃止言説展示室】
http://plaza.rakuten.co.jp/abolitionists/


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大事件を決めるのは誰か [メディア]

犯罪は微罪から重大犯罪まで多種多様に存在するが、メディアの扱いは、必ずしも重大犯罪だから大きくなるとか、微罪だから小さいということは無い。いわゆる「社会問題」にしても、深刻で広範な被害が出るから大きく扱われるとか、さして害が無いから扱われないわけでもない。
例えば、ここ数日話題になっているミートホープの偽装問題についても、確かに大手だから被害は広範であるものの、別に毒物が入っていたわけではないし、それによる健康被害があったわけでもない。食の安全という観点から言えば、添加物や農薬のほうが(合法でありながら)よほど広範に渡って実害のある深刻な問題だが、そんなことはメディアでほとんど取り上げられない。
ここには、まずスポンサーとの利害関係がある。食品添加物を批判的に扱えば、ほぼすべての食品産業・外食産業・コンビニ・スーパーはスポンサーにならないだろう。自分の取り扱っている商品を批判されているのだから、当然のことだ。
このように、スポンサーとの利害関係や、国との利害関係によって、重要でありながら扱われない問題は山のようにある。

一方で、事件の重大性とは無関係に、刺激的な映像があって視聴率が取れるから、との理由で必要以上に大きく取り上げられる事件もまた多い。
少し前、中学だったか高校の教員が下着ドロボーをしたことが、やけに大きく扱われた。確かに、公務員(それも教職員)が性犯罪(?)を犯したのだから、普通の窃盗より大きく扱われるのは当然かもしれない。しかし、それにしたってあまりにも大々的な報道だったのだ。ヘタすりゃトップニュース並みの扱いだった。
これほど大事件として扱われた理由は、おそらくは単純である。「画があったから」だ。
被害者の女性が防犯カメラを仕掛けていたおかげで、この事件は下着を盗むまさにその瞬間が、犯人の顔とともに録画されていた。テレビ的にはこの上なく「オイシイ映像」があったわけだ。渋谷スパ爆発問題も、都心で起きたとはいえ、爆発直後のあの映像が無ければ、ここまで大きなニュースになっただろうか。
また、事件報道など視聴者の感情を喚起しやすい問題も、犯罪の軽重や特異性とは関わり無く大きく扱われる傾向にある。

ここには、いくつかの問題がある。
多種多様な事件・問題がある中で、放送時間も紙面も限られている。さして重要でない(が視聴率は取れる)問題ばかりに放送時間と紙面が割かれれば、他の問題は小さな扱いにせざるを得ない。それが例え、実際にはとても重要な問題であってもだ。
ましてや本当に深刻な問題は説明に時間がかかり、分かりにくく、しかも刺激的な映像を伴わないような「地味」なものである場合が多い。社会システムそのものが起因している場合は特にそうである。数分のVTRを見てコメンテーターが数十秒の解説なり意見を言って次の話題に移る番組構成では、こうした問題の核心を突くことは不可能だろう。
刺激的な映像や証言ばかりが幅を利かせ、地味で冷静な分析が嫌煙される中、扱いのバランスは明らかに崩れていく。そして、重要な問題が議論とならないまま放置されていく。
更に言えば、司法の世界で「世間に与えた影響が大きい」ことから重罰が課せられる現実が出てきている今、メディアが騒いだことが量刑にまで影響してきている。メディアが何を大きく伝え、それによって大きな影響を与えるかは、報道の範囲を超えた問題でもあるのだ。

テレビでニュースを観るとき、新聞を読むとき、少しだけ考えてみよう。
トップニュースや1面に載る刺激的な事件と、数分しか流れないニュースの、どちらが本当に重大なのか。

ミートホープ問題については、後日のエントリー「中国を叩けば食卓は安全か」もご覧ください


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PFI刑務所は「小さな政府」に繋がるか [司法]

私の住む島根県ではつい先日、日本で二番目となるPFI(半官半民)刑務所が着工となった。山口県美祢市では、既に日本発のPFI刑務所が誕生している。
厳罰化が進んで受刑者が増えていく中、コスト削減と効率化がその名目である。アウトソーシングによって国費からの支出を抑える「小さな政府」路線のひとつとも言える。確かにPFIによって、税金からの支出は少なくなるのだろう。しかし、国家の権限は小さくなるだろうか。

例えば受刑者が脱獄しようとした場合、委託業者の人間は受刑者の身体拘束を認められていないので、制度上は「通せんぼ」までしか許されていない。そうやって受刑者が逃げ回っているうちに、身体拘束を許されている国の看守が通報を受けて出向き、受刑者を取り押さえることになる。
しかし、こんなことは本当に可能だろうか。脱獄されてしまえば、それを監視する任務に当たっていた従業員は、これ以上ないミスを犯したことで処分される。そのリスクを考えれば、当然ながら、規則違反をしてでも捕まえざるを得ない状況が生まれて来るのではないか。
また受刑者の管理についても、コスト削減の名の下に充分な要因が配備されなければ、もしくは民間企業のシステムに不具合があれば、許されている以上の(又は違法な)身体拘束や暴力をもって管理するしかない場合も出てくるだろう。
しかし、そうした事態が起こった場合にも「うちじゃなくてセコムの問題です」との言い逃れによって、国は責任を負わずにすむ。問題を生む状況に追い込みながら、しかし問題が起こっ場合には、その状況を作り上げた国ではなく、実際に問題を起こしたプレイヤー個人と企業が責めを負う図式になっているわけだ。せいぜい委託する業者を交換するくらいのことで、国の責任は真っ当される。

裁判員制度についても、同じようなことが言える。
6月17日付の朝日新聞・社説では裁判員制度について「裁判員制度導入にはお上まかせへの反省が込められています。戦後憲法は主権在民をうたい、国民一人一人が主役となって国政に参画し、行政を司法を監視・監督することを期待しました。」と述べ、司法を国家から国民の手に移し、司法を監視するための制度として裁判員制度が紹介されている。
しかし、これは幻想と言わざるを得ない。現実には検察や職業裁判官が判決を誘導していても、最終的には裁判員であるところの市民の判断だとして、国が判決に対して免責され得るのが裁判員制度である。
被告人にどのような暴力(身体的拘束や生命の剥奪)をふるうかを決定する場=裁判に、暴力行使の判断を下すプレイヤーとして国民を組み込むことで、国家が責任と非難を免除される構図だ。

どちらも「戦争の民営化」と似ている。戦争を起こすかどうかも、どこでどのような戦争をするかも、いつ戦争をやめるかも、国のみに権限があるにも拘らず、実際のプレイヤーをアウトソーシングすることによって、現場で起こる様々な問題について国は責任を負わなくてすむ。
それによって国は、戦争の現場でいかに戦死者が出ようと、いかに国際法違反の行為が行われようと、(実際にはそうせざるを得ない状況に追い込んでいても)責任を負う必要は無くなる。
いずれの場合も、一見すると国の守備範囲が狭くなっているようでいて、しかしその実、現場を外部委託することによって国は低コストで、責任を負うことなく、最低限の非難を浴びるだけで、より強い権力を持つことが可能になる。

裁判員制度によって、おそらくは更に厳罰化が進み、刑務所は更に拡大せざるを得ず、財政的に回らないので更にPFI刑務所が増え、それによるセコムへの天下りも増え、国側にいる人たちはオイシイ思いをするだろう。

<引用(孫引き)>
【非処罰プロジェクト「"理解"と"信頼"の裁判員制度」】
http://turedure-sisaku.blogzine.jp/sophia/2007/06/post_2e3e.html
<参考>
【萱野稔人「民営化された戦争は国家に何をもたらすか」】
http://kayano.yomone.jp/


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島根労働局 不正テキスト問題 [貧困]

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<西日本新聞「面接で「給料聞くな」 島根労働局のテキスト」>
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/20070620/20070620_012.shtml
島根労働局(松江市)の求職者向け再就職支援セミナーで「面接の際に給料、残業、休日について聞いてはならない」と記したテキストを参加者に配っていたことが20日、分かった。
同労働局の中島住夫職業安定課長は「テキストの点検が不十分だったと反省している。再点検し早急に問題の個所を削除・修正したい」と話している。
島根労働局によると、テキストは2005年度から、ハローワーク島根(松江市)が主催するセミナーで使われていた「面接の受け方」。労働局の委託を受けた都内の会社が作った。
「面接必勝の秘訣」の項目に「自分から給料、休日、勤務時間、役職の話は持ち出さない」とあるほか、面接の最後に「何か質問は」と聞かれた際のポイントとして「間違っても給料、残業、休日について聞いてはならない」と書かれていた。
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これ、実は私が告発しました(笑)

この問題については当事者性が強すぎるので取り上げないつもりだったけど、各地方紙及び全国紙でも報道され、2chでも話題になっているようなので、一応、言及しておきます。
私が該当のセミナーを受けたのは今月4日。島根県出雲市のハローワークが主催した「就職支援セミナー」においてでした。その数日前に私は東京へ旅行していて、上京を控えていることもあって、求人フリーペーパーなどを読み漁っていました。そこには「後々モメないためにも、面接の段階で労働条件についてよく確認しておきましょう」「アルバイトでも有給休暇が認められます」といった、当たり前でありながら若年層にはあまり周知されていない情報が乗っており、「やっぱ東京は進んでるべぇ、さすがだなぁ」などと思っていたわけです。
で、帰ってきて地元のセミナーに参加したら、この有様。
新聞には書かれていませんが、このテキストには「入社日はいつ頃になりますか」との質問に対しても「期限などつけてはならない。そんなことでは、やる気があるのか疑われます」といった内容も綴られています。上京予定である私にとっては、それも「上京も雇用先の都合に合わせろってことかよ」と感じずにはいられませんでした。
内容のあまりのひどさに辟易し、というかむしろ笑うしかなく、告発(?)に至ったのです。
島根県議会で取り上げられたこの問題は、地方紙と全国紙(朝日新聞)で大きく扱われ、朝日新聞の要請によって、ついには国(厚労省)が、どの程度このテキストを採用しているかを労働局に調査させ、指導するに至ったのです。

正直、ここに書かれている内容は、今の若年層にとっては「当たり前」のことでしょう。残業・給与・休日について聞かず、いわば「雇っていただけるなら奴隷になります」的な姿勢を示すことでしか職を得られないという厳しい現実があります。
しかし、それを国(の一部である労働局)が認めていることは、大きな問題です。こんなことでは、格差是正も、サービス残業根絶も、されるはずが無い。企業にとっても、労働条件すら確認しないで入ってきた人が、後々になって「そんな話聞いてない」と反発するのもマイナスなわけですが、まぁ、そんな「贅沢」を言う労働者は少ないってことなんでしょうかね。

ただ、私にとって一番衝撃的だったのは、多くの人がこのセミナーを受けていながら、今までまったく問題にならなかったことです。
私はまったくもって、特別なことをした気持ちはありません。自分が「オカシイ」と思ったことを、単に「これ、オカシくね!?」と言っただけです。それがこれほど大きな問題となり、告発者が「特別な人」であるならば、オカシイことをオカシイとすら感じない人が増えていることこそ、由々しき題だと思うのです。
朝日新聞の要請による厚労省の調べによれば、このテキストを使ったセミナーは2005年から今までの2年に渡り、16府県の約9万人に及ぶ受講者が受けてきました。私の経験からすれば、おそらく多くのセミナーで、該当部分をテキストを作成した民間企業の人が読み上げ、指導していたのだと思います。
それにも関わらず、今までまったく問題になってこなかったのです。
だれもオカシイと思わなかったのか、そう思っても口にしなかったのか、口にしたけれども誰も取り合わなかったのか、いずれにしてもダメダメでしょう。
実際、セミナーに参加した個人的な感覚で言えば、ほとんどの人がオカシイとすら思わなかったのかなという気がしています。私が参加したときは若い人が中心でしたが、みんなこれを見て疑問を持つどころか、そうなのか!って感じでメモをする人さえいましたから。
若年者に、いかに「労働者の権利」が伝承されていないかを実感する出来事でした。


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自殺は「自己責任」なのか [自殺]

昨年11月末にNHKで放送された「ETBワイド ともに生きる」の自殺特集の中で、政治学者である姜尚中が「自殺未遂者との表現は適切ではない。サバイバー(生き残り)と見るべきだ」といった趣旨の発言をしたことが、心に残っている。
確かに考えてみれば「自殺未遂者」とはおかしな言い方である。じゃあ、実際に死を遂げた人は「自殺成功者」なのか。
そう考えてみると、そもそも「自殺」も適切な言葉なのだろうか。もちろん、「自殺」した人々は、少なくとも物理的には"自ら"命を絶っているが、その要因にまで考えをめぐらせれば、多くは多重債務・過労・いじめといった社会的な要因が背後に存在している。いわば自殺者は、社会的な要因によって死に追い詰められた「社会的な殺人」の被害者とも言える。
しかし、例えば「自殺」に代わる言葉として「自死」があり、この言葉は大辞泉によれば「意思的な死を非道徳的・反社会的行為と責めないでいう語。」と定義されており、それは裏を返せば、自殺は多くの場合「非道徳的・反社会的行為」として責めの対象であることをも意味している。

自殺は長年にわたって、特に日本では、個人の価値観の問題とされた来た。同じ(不幸な)境遇にあっても死ぬ人と死なない人がいるのだから、いかなる背景があろうとも結局は個人の選択であって、ようは自己責任であるとみなされ、それゆえに社会的な対策はほとんど取られてこなかった。また一方で、自殺者は「死を選んだ弱い人」とみなされ、自殺者自身もその遺族も、保護されるのではなく責められる対象となってきた。
確かに、同じような不幸(借金・過労・いじめ)にあっても、死ぬ人と死なない人はいるだろう。しかし、その境遇にあれば多くの人が死ぬことが予想される場合、その状況の中での自殺を「個人の判断」として片付けることは出来ない。
以前にも書いたが、自殺者のほぼ半数は失業者や無業者である。また昨今では、就業していても、過労自殺に代表されるような「労働状況の悪化による自殺」も増えている。貧困と労働の問題は、多くの自殺に直結しているだろう。
多重債務者も、そのほとんどは医療費や家計のための借金(貧困による借金)が発端で、一般にイメージされる「ギャンブルで散在して借金を抱える」といったケースはごく少数であるし、仮にギャンブルで散在したことから経済苦に陥ったとしても、それが「死を持って清算するしかない」ような過ちであるはずも無い。
貧困からいとも簡単に借金苦に追いやられ、それを保険金によって清算することが現実に可能な社会システムこそが、多くの自殺を生み出している。

昨年6月に「自殺対策基本法」が施工され、政府が「自殺は個人の問題ではなく、社会の問題」であることを認めたことで、国をあげての自殺対策が始まっている。もはや、自殺の原因を個人のみに押し付けることは許されない。
「自殺」という名の「社会的な殺人」がいかに減少していくのか、自殺大国ニッポンが変容を遂げることを信じ、その動向に注目したい。

【自殺対策基本法】
http://www.lifelink.or.jp/hp/syomei.html
【ETVワイド ともに生きる】
http://www.nhk.or.jp/heart-net/wide/archives.html
(11月が該当部分)


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松岡農水相の自殺に見る、日本的な死生観と責任感 [自殺]

自殺が先月28日だから、もう一ヶ月ほど前のことで、まったくもって今更だ。自分の思考速度の遅さに呆れつつ、同じ問題を考え続けることもまた有用だと思う。
自殺が与えた政治的な影響や、ナントカ還元水に代表される事務所費問題、官製談合事件の問題について、私はよく知らない。しかし、農水相の自殺には、日本の自殺問題を取り巻くいくつかの象徴的な要因があると感じた。それは主に、自殺する人々と、それを取り巻く人々の日本的な死生観、責任感においてである。
「国民の皆様 後援会の皆様」と題された松岡農水相の遺書には、一連の疑惑に対する謝罪が記述された後に「自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます」と綴られていた。
このような「死んで詫びる」死生観、責任感こそ、ハラキリに始まる日本的な価値観で、だから石原東京都知事が「死をもって償った。彼もサムライだったのだと思う」と自殺に対してコメントしたことは、ある意味で実に的を得ている。死んで責任を取ることこそが、まさにサムライ・ハラキリ的な価値観だからだ。
しかしもちろん、「彼がサムライであった」ことと、「それが良きことである」のはまったく別の話である。なにしろ、今は2007年だからな。

日本で自殺した多くの人の遺書には、周囲への謝罪と、自分を責める言葉が綴られているという。
ドラマなどに出てくる「先立つ不幸をお許しください」に代表されるように、多くの自殺者は、実際には社会システムやいじめによって死に追いやられた被害者であるにも拘らず、自分を責めながら命を絶っていく。そして亡くなった後に、遺族が死の原因を探ろうとしても、「死んだ後であれこれ詮索するな」といった雰囲気が周囲を取り巻き、真相究明をすることも容易ではない。
こうして、死によって問題を終わらせる価値観の中で人が死に、現に死後の原因究明がなされないことによって、死による問題の終結が実現される。
このことは、企業などで不祥事が起こった場合に、そのほとんどが、原因究明や問題解決によってではなく、経営者が退陣することで終息していく構図と似ている。その場から人がいなくなることで、問題が「解決」ではなく「終息」することを、日本社会は長きに渡って容認し、支持し、時には要請してきた。コムスン問題がいまだ解明されていない中で、とりあえず折口に退陣しろと迫る声が上がるのも、こうした現象の一つである。

松岡農水相の自殺後、安部首相は談合事件について「捜査当局から『松岡大臣や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行うという予定もない』と発言があったと聞いている」と述べ、談合事件に関する大臣への捜査が行われないとの態度を示した。つまり、大臣の死によって、談合事件の解明を終結させようとした。
このような「死を持って何かを成す」価値観を国家が承認し、利用することの恐ろしさ感じる。
都知事が農水省の自殺を「サムライであった」と肯定したことと、いざとなれば特攻隊員として死んでいくことを賛美する「俺は、君のためにこそ死ににいく」的な価値観は、どこかで相通じているだろう。農水省が遺書の締めくくりとして「安倍総理 日本国万歳」と、まるで戦時下のような内容を書いたことも、彼が「死をもって罪を償った」ことと、同じ価値観の上に成り立っているように見える。
死によって何かを成し遂げうると考える人たちが国を治めるとき、市民の生命は、国家のものではなく市民自身のものとして、認められるのだろうか。

<参考>
【「だめなお父さんでごめんね」ライフリンク・清水代表インタビュー】
http://news.livedoor.com/article/detail/1530048/
【朝日新聞ニュース特集「松岡農水相自殺」】
http://www.asahi.com/special/070528/
【立花隆の「"謎の自殺"遂げた松岡農水相 安部内閣が抱える"闇"の正体」】
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070528_yami/index.html


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「被害者の気持ちになってみろ」言説がはらむ、いくつかの弊害 [犯罪被害者]

「被害者の身になってみろ。お前だって同じ立場なら、厳罰を望むだろう」は、厳罰化を口にする人々の常套句である。もはやテンプレートだ。そりゃ確かに私も、自分自身や親しい人が被害に合えば、加害者に憎しみを抱くだろうし、殴ってやりたいとか、殺してやりたいと思う場合もあるだろう。
しかし一方で、例えば私の友人が被害者遺族になり、「今から加害者を殺しに行く」と友人が殺人計画を立てたなら、私は決して「あいつは本当にひどいもんな。殺されて当然だ」と加勢して一緒に殺しに行くことはしない。「気持ちは分かるけど、殺すのはやめとけ」と諭すだろう。
ひとつの事象に対して、立場が違えば意見や判断が違って当たり前である。そして様々な立場からの意見と判断が総合されて、社会全体は営まれる。非当事者が、非当事者として考え、非当事者として意見を述べることをやめたとき、様々な視座があってこそ成立する「社会全体のバランス」は確実に失われる。

また被害者への認識についても、「代弁者」たちは被害者=厳罰要求との単純化をして見せるが、そこに弊害はないだろうか。もちろん、事実、厳罰を要求する被害者が圧倒的多数ではある。しかし一方で、必ずしも厳罰・極刑を求めない被害者も存在するのだし、厳罰を望む場合も、何故、どの程度の厳罰を、どのように望むのかは、人によって異なる。
被害者もまた、当然ながら多様である。被害者=厳罰要求との単純構図は、そうした被害者の多様性を黙殺し、個々人の被害者と向き合うことの必要性を放棄する機能を果たしている。
例えば、真に被害者への同情から厳罰を求めるのであれば、「厳罰後」の被害者の実態を知る必要があるだろう。厳罰の結果、被害者がいかに救済されたのか(又はされなかったのか)。何故、どの程度、なにが救済されたのか(又はされなかったのか)、結果の検証なくして「被害者のためになるから厳罰」との理屈は成り立たない。
しかし、「厳罰後」の被害者に対して、どれほどの厳罰化論者が興味を持っているというのか。
厳罰化を求める多くの「自称・被害者の代弁者」たちは、その実、加害者が厳罰に処せられることでスッキリし、早く「終わったこと」にしたいだけの無責任な非当事者ではないのか。自身の破壊衝動や暴力衝動、もしくは個人的・社会的な不安の解消に、被害者を利用してはいないか。

光市事件の被害者遺族である本村さんの言葉が、私の頭から離れない。
「私の運動で厳罰化が進み、重い刑になった人がいるなら、私はその人の命も背負って今後の人生を生きていかなくてはいけないのだと思っています」(記憶に基づく意訳)
これほどの重さと覚悟を持って、厳罰を支持している非当事者がどれだけいるだろう。いや、そもそも、そんなことは非当事者に可能だろうか。私たちは、日々報道されるおびただしい数の事件情報を、怖いと感じることはあっても、それで悩み苦しむことなどほとんど無い。一ヶ月もすれば「そんなことあったね」ってなもんである。
自分の人生をかけてまで厳罰を求めることなど、しょせんは事件が「他人事」である私たちには不可能だ。被害者の心情に思いを馳せることは出来ても、共感することなど、つまり「被害者の気持ちになってみる」ことなど、出来るはずも無い。

被害者(又は遺族)が厳罰を望んでいることを理由にして、その結果の検証もなされぬままに、実際の司法が厳罰化されて行く。
厳罰化の責任を、被害者遺族に負わせて良いのか。
それが「被害者の気持ちになってみた」人々の、優しさなのだろうか。

<関連>
【殺された側の論理】
http://www.bk1.co.jp/product/02749077
【ふらっと 死刑制度を考える -原田正治さんー】
http://www.jinken.ne.jp/other/harada/index.html
【アムネスティ 死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ「河野義行さん」】
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_kouno.html


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「有罪推定」の日本で、裁判員制度と被害者参加制度はオッケーか? [司法]

推定無罪は、近代刑事法の基本原則である。
逮捕・拘留の段階はあくまでも「容疑がある」だけで、有罪判決が下りるそのときまで、いかに容疑が濃厚に見えても無罪と推定される。容疑者はあくまでも、事件を起こした疑いのある人であって「犯人」とイコールではない。
しかし日本では、まったくもってこの原則が生きていない。だからこその99.98%の有罪率だ。
「報道被害」の著者である梓澤和幸弁護士がビデオニュースに出演した際、報道被害が生まれる一因として「世間は、警察が捕まえれば有罪だ、事件が解決したも同然だと思っている。その"推定有罪"意識を裁判所も共有している」ことを上げている。起訴されればほぼ確実に有罪になる社会の中で、「逮捕はされたけど、まだ推定無罪」といった冷静さが生まれるはずもない。

最近の法務委員会で、とても印象に残るやり取りがあった。裁判への被害者参加制度について、社民党の保坂展人が質問した際である。「被害者又はその遺族が裁判に参加した際、推定無罪原則がどのように適応されるか」との質問だった。
私が見たときには具体的に踏み込んで聞いていなかったが、この質問の真意を要約すれば、こうである。被告人が無罪を主張している場合であっても、被害者は当然、裁判に出席すればその被害の甚大さと、現状の自分の悲痛さを訴えるだろう。「あなたのせいで私はこんなに酷い目に合った」「私の家族を殺したことを、どう思っているのか」と被害者が被告人に質問したとして、そこに推定無罪原則は働くのかという疑問だ。
これに対して長瀬法務大臣は、「質問の意味が分からない」との答弁を繰り返した。質問の真意をあえて分からないフリをしたのか、本当にサッパリ分からなかったのか。どちらにせよ、法務大臣にとって推定無罪原則の重要性は「分からないし、分からなくてもいい程度のもの」であることが露呈したように思えた。

裁判員制度も被害者参加制度も、判断する側に回る裁判員=市民がしっかりしていれば、もしかしたら問題の無い制度かもしれない。メディア報道や被害者の感情はそれはそれとして、推定無罪原則をきちんと守り、端的な事実によって判断する冷静さがあるなら、正しい判断のおりる場合が多いだろう。
しかし、果たしてそんなことはありうるだろうか。被害者の怒り・悲しむ姿をメディアで見て、さほど事実が解明されていない段階から、容疑者に対して「こんな悪い奴には厳罰を!」との声が圧倒的になる日本社会だ。法的に言えば、容疑者は「悪いことをやった疑いはあるが、まだそれが確実でない人」だが、そんな曖昧な立場は、日本には実質、存在しない。シロかクロしかない。
この国のほとんどの人は、拘置所と刑務所の区別も、容疑者と犯人の区別も、ついていないだろう。

その日本で、裁判員制度と被害者参加制度が、同時平行で始まろうとしている。
「事実に基づく公正中立な裁判」など、もう誰も求めていないのだろうか。

<参考>
【「なぜ報道被害は無くならないのか」マル激トーク・オン・ディマンド第323回】
http://www.videonews.com/on-demand/321330/001091.php
【保坂展人 国会質疑の議事録と動画】
http://www.hosaka.gr.jp/ask/index.html
【NHKニュースのはてな「被害者参加制度」】
http://www.nhk.or.jp/nagano/eve/hatena/index.html
<関連>
【酔うぞの遠めがね 「被害者参加制度」】
http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2007/03/post_b536.html


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「生きさせろ!難民化する若者たち」に見る、生きていく私たち [貧困]

雨宮処凛の「生きさせろ!難民化する若者たち」を読んだ。ネカフェ難民に象徴される「新しい貧困」「見えない貧困」を綿密に取材した良書である。 ここ10年に渡る若者バッシング&自己責任論が、若者たちに何を植え付けたのか。その中で雇用と貧困が誰にとって都合よく使われ、どれほど多くの金と労働と生活と自尊心と命を奪ってきたのか、まざまざと見せ付けられる。
世間では景気回復が言われ、確かに東京の駅前からもホームレスは格段に減った。でも、それじゃどうしてこんなに私たちは貧しく不幸なのか? 一体どこの景気が良いのか? その疑問に対する答えのひとつが、本書にはある。

一方で重要だと思うのは、本書が単に現状の悲惨さだけを描いて終わっていないことだ。過酷な現実を直視しつつ、ついに反撃を始めた若者たちの新たな流れにも着目しており、WEBで話題になっている(と思う)高円寺ニート組合などについても紹介している。
多くのプレカリアート(非正規雇用者・失業者)にとって、本書は絶大な共感書であり、応援歌でありうると思う。
「生き残る」という言葉が、こんなにもリアルになってしまった今の日本社会で、自殺未遂を繰り返してきた著者の「生きさせろ」は、先進国にあっても心から実感のこもった言葉だ。
今年4月に行われた「自由と生存のメーデー」で、著者は先頭に立ってシュプレヒコールをあげていた。「マックは自給を上げろ!夜中にマック難民を追い出すな!」「身分証の提示を求めるな!免許書も保険証もないぞ!!」主張というよりは悲痛な叫びとも取れる言葉を、彼女は延々と放ち続ける。その切実さに心を打たれた。

それで本書の内容とは別に考えたのは、弱者が更なる弱者の労働を消費せざるを得ないということで、例えば日本で低所得であればあるほど、ファーストフードや低価格商品を利用せざるを得ない。そのファーストフードと低価格商品を支えているのは、日本で働く膨大な数の非正規雇用者と、いわゆる発展途上国の人々である。
グローバリゼーションの中で、富める物は国境を越えた搾取によって国内外からあらゆるものを奪って富を増大させ、貧困者は国境を越えて搾取され続ける。解決の糸口はどこにあるのかと呆然としながら、それでも反撃を始めた若者たちの叫び声に、一縷の望みを託したいと思う。

<参考>
【自由と生存のメーデー】
http://www.youtube.com/watch?v=ebbEXlWBJXA
http://www.youtube.com/watch?v=KldULollcgs
http://www.youtube.com/watch?v=oBCxH5kGZ_s
【反貧困キャンペーン】
http://www.janjan.jp/living/0706/0706086912/1.php
【松本哉 選挙活動】
http://www.youtube.com/watch?v=dNstmvH0Bm0


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