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「有罪推定」の日本で、裁判員制度と被害者参加制度はオッケーか? [司法]

推定無罪は、近代刑事法の基本原則である。
逮捕・拘留の段階はあくまでも「容疑がある」だけで、有罪判決が下りるそのときまで、いかに容疑が濃厚に見えても無罪と推定される。容疑者はあくまでも、事件を起こした疑いのある人であって「犯人」とイコールではない。
しかし日本では、まったくもってこの原則が生きていない。だからこその99.98%の有罪率だ。
「報道被害」の著者である梓澤和幸弁護士がビデオニュースに出演した際、報道被害が生まれる一因として「世間は、警察が捕まえれば有罪だ、事件が解決したも同然だと思っている。その"推定有罪"意識を裁判所も共有している」ことを上げている。起訴されればほぼ確実に有罪になる社会の中で、「逮捕はされたけど、まだ推定無罪」といった冷静さが生まれるはずもない。

最近の法務委員会で、とても印象に残るやり取りがあった。裁判への被害者参加制度について、社民党の保坂展人が質問した際である。「被害者又はその遺族が裁判に参加した際、推定無罪原則がどのように適応されるか」との質問だった。
私が見たときには具体的に踏み込んで聞いていなかったが、この質問の真意を要約すれば、こうである。被告人が無罪を主張している場合であっても、被害者は当然、裁判に出席すればその被害の甚大さと、現状の自分の悲痛さを訴えるだろう。「あなたのせいで私はこんなに酷い目に合った」「私の家族を殺したことを、どう思っているのか」と被害者が被告人に質問したとして、そこに推定無罪原則は働くのかという疑問だ。
これに対して長瀬法務大臣は、「質問の意味が分からない」との答弁を繰り返した。質問の真意をあえて分からないフリをしたのか、本当にサッパリ分からなかったのか。どちらにせよ、法務大臣にとって推定無罪原則の重要性は「分からないし、分からなくてもいい程度のもの」であることが露呈したように思えた。

裁判員制度も被害者参加制度も、判断する側に回る裁判員=市民がしっかりしていれば、もしかしたら問題の無い制度かもしれない。メディア報道や被害者の感情はそれはそれとして、推定無罪原則をきちんと守り、端的な事実によって判断する冷静さがあるなら、正しい判断のおりる場合が多いだろう。
しかし、果たしてそんなことはありうるだろうか。被害者の怒り・悲しむ姿をメディアで見て、さほど事実が解明されていない段階から、容疑者に対して「こんな悪い奴には厳罰を!」との声が圧倒的になる日本社会だ。法的に言えば、容疑者は「悪いことをやった疑いはあるが、まだそれが確実でない人」だが、そんな曖昧な立場は、日本には実質、存在しない。シロかクロしかない。
この国のほとんどの人は、拘置所と刑務所の区別も、容疑者と犯人の区別も、ついていないだろう。

その日本で、裁判員制度と被害者参加制度が、同時平行で始まろうとしている。
「事実に基づく公正中立な裁判」など、もう誰も求めていないのだろうか。

<参考>
【「なぜ報道被害は無くならないのか」マル激トーク・オン・ディマンド第323回】
http://www.videonews.com/on-demand/321330/001091.php
【保坂展人 国会質疑の議事録と動画】
http://www.hosaka.gr.jp/ask/index.html
【NHKニュースのはてな「被害者参加制度」】
http://www.nhk.or.jp/nagano/eve/hatena/index.html
<関連>
【酔うぞの遠めがね 「被害者参加制度」】
http://youzo.cocolog-nifty.com/data/2007/03/post_b536.html


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