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松岡農水相の自殺に見る、日本的な死生観と責任感 [自殺]

自殺が先月28日だから、もう一ヶ月ほど前のことで、まったくもって今更だ。自分の思考速度の遅さに呆れつつ、同じ問題を考え続けることもまた有用だと思う。
自殺が与えた政治的な影響や、ナントカ還元水に代表される事務所費問題、官製談合事件の問題について、私はよく知らない。しかし、農水相の自殺には、日本の自殺問題を取り巻くいくつかの象徴的な要因があると感じた。それは主に、自殺する人々と、それを取り巻く人々の日本的な死生観、責任感においてである。
「国民の皆様 後援会の皆様」と題された松岡農水相の遺書には、一連の疑惑に対する謝罪が記述された後に「自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます」と綴られていた。
このような「死んで詫びる」死生観、責任感こそ、ハラキリに始まる日本的な価値観で、だから石原東京都知事が「死をもって償った。彼もサムライだったのだと思う」と自殺に対してコメントしたことは、ある意味で実に的を得ている。死んで責任を取ることこそが、まさにサムライ・ハラキリ的な価値観だからだ。
しかしもちろん、「彼がサムライであった」ことと、「それが良きことである」のはまったく別の話である。なにしろ、今は2007年だからな。

日本で自殺した多くの人の遺書には、周囲への謝罪と、自分を責める言葉が綴られているという。
ドラマなどに出てくる「先立つ不幸をお許しください」に代表されるように、多くの自殺者は、実際には社会システムやいじめによって死に追いやられた被害者であるにも拘らず、自分を責めながら命を絶っていく。そして亡くなった後に、遺族が死の原因を探ろうとしても、「死んだ後であれこれ詮索するな」といった雰囲気が周囲を取り巻き、真相究明をすることも容易ではない。
こうして、死によって問題を終わらせる価値観の中で人が死に、現に死後の原因究明がなされないことによって、死による問題の終結が実現される。
このことは、企業などで不祥事が起こった場合に、そのほとんどが、原因究明や問題解決によってではなく、経営者が退陣することで終息していく構図と似ている。その場から人がいなくなることで、問題が「解決」ではなく「終息」することを、日本社会は長きに渡って容認し、支持し、時には要請してきた。コムスン問題がいまだ解明されていない中で、とりあえず折口に退陣しろと迫る声が上がるのも、こうした現象の一つである。

松岡農水相の自殺後、安部首相は談合事件について「捜査当局から『松岡大臣や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行うという予定もない』と発言があったと聞いている」と述べ、談合事件に関する大臣への捜査が行われないとの態度を示した。つまり、大臣の死によって、談合事件の解明を終結させようとした。
このような「死を持って何かを成す」価値観を国家が承認し、利用することの恐ろしさ感じる。
都知事が農水省の自殺を「サムライであった」と肯定したことと、いざとなれば特攻隊員として死んでいくことを賛美する「俺は、君のためにこそ死ににいく」的な価値観は、どこかで相通じているだろう。農水省が遺書の締めくくりとして「安倍総理 日本国万歳」と、まるで戦時下のような内容を書いたことも、彼が「死をもって罪を償った」ことと、同じ価値観の上に成り立っているように見える。
死によって何かを成し遂げうると考える人たちが国を治めるとき、市民の生命は、国家のものではなく市民自身のものとして、認められるのだろうか。

<参考>
【「だめなお父さんでごめんね」ライフリンク・清水代表インタビュー】
http://news.livedoor.com/article/detail/1530048/
【朝日新聞ニュース特集「松岡農水相自殺」】
http://www.asahi.com/special/070528/
【立花隆の「"謎の自殺"遂げた松岡農水相 安部内閣が抱える"闇"の正体」】
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/feature/tachibana/media/070528_yami/index.html


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