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推奨されているのは「死刑」か? [死刑制度]

死刑事件において、もっとも大きく報道されるのは「死刑が求刑されたのに、異なった判決が出た」もしくは「下級審の判決を覆して、求刑通り死刑判決が出るのか」という話題だ。
一方で、死刑確定や死刑執行のニュースは扱いが小さく、特に執行に関しては、新聞ならベタ記事、テレビならアナウンサーが1~2分程度事実を伝えるだけである。キャスターやコメンテーターが、それについて意見を述べることは無い。
求刑よりも軽い判決が出た場合、つまり、検察=国の思い通りにならなかった場合が最も大きく報道され、ありとあらゆるコメンテーターが検察の主張を追認するわけで、そう考えると「国家を監視する装置としてのメディア」はどこへ行ったんだと思うものの、今回はそれが主題ではないので置く。

私はいつも、この扱いのバランスを見て、「推奨されているのは本当に死刑なのか」と思わずにいられない。
例えば、みのもんたはあれほど過激に死刑を推進し、「一人でも殺したら死んで償うしかない」「死刑は日本の文化」とまで言っているのだから、執行のニュースに対して「いやぁ、日本から凶悪犯がまた一人減りましたね。平和への第一歩です。これからもどんどん執行して欲しい」とか言っても良さそうなものだが、絶対に言わない。というか、死刑執行のニュースに対してコメントすらしない。ちょっと頭の足りないコメンテーターが、一人くらい「執行されて良かった」的な発言をしたっておかしくないのに、そういった言葉を聞いたことも無い。
結局、殺すの怖いんじゃないのか。
少なくとも、実際に人が死んだという事実に向き合う姿勢は微塵も見えない。死刑を煽るなら煽るなりに、その帰結についても責任を持つ必要があると思うのだが。

もちろん、2ちゃんねるを始めとするWEBなど、匿名性の高い分野では、死刑執行に対して賛美する風潮は多少はある。しかし、彼らが賛美しているのも、本当に「死刑」なのか。「人の死」なのか。
アメリカの死刑は、半公開処刑(被害者遺族・加害者家族などが希望する場合、及び一部のメディアは立ち会うことが可能)である。
もし仮に日本がこれをやったら、今のような死刑オッケー!ムードは一変するように思う。実際の死を目の前にして「これで良かった。正義が行われた。」とは言わないんじゃないのか。日本人はもう少し、死に対してナイーブなように思う。
その根拠は、実は死刑の現場とは別のところにある。アメリカは長年にわたり、様々な国と戦争を繰り返している。一方で国内での凶悪事件に対しては、射殺して解決することも多い。つまり、ごく日常的に「正義の名のもとに行われる殺人」を体現している。
しかし、日本は60年以上に渡って戦争をしておらず、国内で凶悪事件が起こっても射殺することは無い。つまり私たちは体験的に「正義の名のもとに行われる殺人」を、死刑以外の場面では経験していない。そのことは、かなり奥底のほうで、死生観や正義感に影響しているのではないか。
死刑の「死」がリアリティを持ったとき、今死刑を推奨している人々は、それでも惑うことなく「さっさと死刑にしろ」と言えるだろうか。
その答えが、日本でこれだけ死刑の現場が隠蔽され、隠し通されていることの理由のひとつであるようにも感じる。

<関連>
【アムネスティ 死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ「森巣 博」】
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_morisu.html
【映画「絞死刑」オープニング】
http://www.youtube.com/watch?v=mI7vZohLkYo&mode=related&search=
【死刑廃止言説展示室】
http://plaza.rakuten.co.jp/abolitionists/


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