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タレント議員という名の集票装置 [選挙]

今回の選挙でも、いわゆる「タレント候補」の活躍が目覚しかった。特に党としての支持をほとんど得られなかった自民党では、比例での当選者は有名人のオンパレードだ。
丸山和也(弁護士)、佐藤正久(元イラク駐留一等陸佐)、義家弘介(ヤンキー先生)、橋本聖子(元スケート選手)。中山恭子(首相補佐官)も入れれば、なんと比例で当選した14名のうち、5人が著名人。舛添要一(国際政治学者)も入れれば6人だ。実に2人~3人に一人の割合な訳で、本当に異常である。
民主党でも横峯良郎が当選し、東京選挙区では最後の最後に滑り込んだのが丸川珠代。
これ、なんのバラエティー番組だよ。

日本の民度に絶望したくなるものの、絶望しても意味は無いので話を進める。
これほどまでに、特に比例でタレント候補が多いのは、よく知られているように比例代表制における票の横流しが可能だからだ。一人の有名人が2人3人分の票を取り、その余り票を別の候補に横流しして、本来なら落選するような獲得票の人を当選させる事が出来る。
日本は政策よりも人柄や知名度で投票する傾向が強く、だからタレント候補も生まれるし、演説カーも名前の連呼を繰り返すし、候補者が泣いて見せたり土下座して見せたりするわけだ。まぁ、政策は難しくてよく分からないし、分かったところで裏切られる可能性がある(現に裏切られてきた)から、そういった無関心や不信感も根底にあるのだと思う。
余りが出るほどの票をタレントが獲得できてしまう風土も問題ではあるけど、その風土をまさに悪用しているのが今の比例代表制だ。

いわゆるタレント議員は昔から存在するものの、大橋巨泉、田嶋陽子、大仁田厚などなど、政治や政党に失望して辞めていく議員も多い。また残っているからといって、どれだけ業績を残しているか怪しい。
だが、そんな事は問題ではない。彼らの一番の仕事は、少なくとも党の求めている役目は、国会や各種委員会で活躍する事ではなく、選挙応援なのである。
ドキュメンタリー映画「選挙」でも、その実態が如実に現れる。映画を見ていない人のために解説すると、これはコイズミ郵政改革選挙において、一般の市民(切手コイン商の男性)がひょんなことから地方選に立候補し、当選するまでを追ったドキュメンタリー映画だ。
この映画の中で、何度か大規模な街頭演説の様子が映し出される。応援に駆けつけるのは、あの当時は一番の有名人であった首相、そして橋本聖子、荻原健司といったタレント議員である。
つまり彼らは、まず選挙の段階で票の横流しを可能にする集票装置としての役割を果たし、その後は各種の選挙で、応援に顔を出すことで集客・集票装置としての役割を果たす。現状では、それこそがタレント議員の「本職」なのだ。

安部政権に大きなNoを突きつけた今回の選挙戦でも、タレント議員には絶大なYesが集まった。
その事も含めて、今回の選挙結果を大歓迎とは思えない。

<参考>
映画「選挙」


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日本の二大政党制はオッケーか [選挙]

選挙も終わり、予想通り民主党の大勝となった。
会期も延長されたし、8時前に締め切る投票所も増えたのに、投票率も前回より高かった。保守王国、島根でも国民新党の亀井明子が当選し、その影響もあってか青木議員が参院議員会長を辞任することにもなった。
もはや自民党が何をしても無駄な選挙だったと言えるのかも知れない。

さて、民主党がめでたく大勝したところで、早めに民主党への、というより二大政党制への苦言を呈しておこう。
前回の「今のうち、民主党に言っておくこと 」を読まれた方から頂いたコメントによれば、私が自民党(アベ政権)応援のために民主党を批判していると思われてしまったようだ。同じ文章で小泉も批判しているわけで、その辺が矛盾してると思われなかったのかは謎だが、まぁ、確かに初めてこのブログを読んでくださった方には、誤解を与える面があったかも知れない。
というわけで、今回は前提を先に言っておく。
私は民主党(野党)が自民党(与党)に勝つことを問題にしているのではなく、野党の中で民主党だけが勝つ事を問題にしているのだ。
前回も述べたように、民主党の政策は自民党と大差がない。
例えば
◆憲法改正:改正案に自民党と差異はあるが、改憲手続きを整備する事は賛成
◆集団的自衛権:自民党と同じく容認を検討
◆原発:自民党と同じく推進
◆企業・団体献金:自民党と同じく賛成
あらかじめ言っておくと、これは自民・民主が一致している、もしくは大差ない内容だけを意図的に集めている。他の面では判断がまったく違う部分もあるので、これをして「同じじゃないか」と言うのは、ある意味で公正ではないだろう。
しかし、大差のない項目がコレ(憲法・軍事・原発・金)だからこそ問題だとも思うわけだ。
もちろん、政治に変化が必要だからといって、常に正反対にいる必要は無い。とは言え、こうした重要項目で同じ所を見ている政党二つだけの「二大政党制」に私は不安を感じざるを得ない。

なにしろ、大躍進したのは野党全体ではなく民主党だけで、社民・共産とも議席を減らした。大躍進した民主党の中でも、横峯良郎(さくらパパ)は一番に当確が出たけど、日本初のレズビアン国会議員を期待された尾辻かな子は落選。
与党が退廃した事は望ましいと思いつつ、結局のところ、少数派が更に追い詰められた選挙結果のようにも思う。日本は本当に、このまま二大政党に集約されて行って大丈夫なのだろうか。
二大政党制って結局は、少数派の声が切り捨てられ、多数派の人々だけが政治を握る社会ではないのか。今の自民・民主体制の中では特にそう思わずにいられない。

それで思い出したのは外山恒一(元・東京都知事選候補)の政見放送だ。
「多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか!」
「少数派の諸君、多数派を説得する事など出来ない! 奴ら多数派は、我々少数派の声に耳を傾ける事はない!」
イカレタ彼の言葉の数々が、選挙を終えた私の胸に突き刺さる。
今回の選挙での民主党大勝が、この言葉を覆したとは、とても思えない。
とても複雑な気持ちで、今回の選挙結果を眺める自分がいる。

<関連>
ムルダヴァのように「怒りのサンプロ」
二大政党制ってどうなのよ
外山恒一 政見放送


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投票日でした [選挙]

14時頃、ウォーキングついでに投票。
今日はたまたま、以前のエントリーに書いた在日3世の友人と連絡を取った。その友人は戸籍上は女性なのだけど、まぁいろいろあって胸を取る手術をしたらしい。
在日で性同一性障害。私に負けず劣らずダブルマイノリティだ。
戸籍の性別も変更したいと思っているが、そのためには下の手術も必要で、だけど今は埼玉医大でSRS(いわゆる性転換)手術を停止しているから国外に出ないと難しいらしい。でも外国語はしゃべれないし、お金もないしと大変なようだ。
一人の医師が定年退職しただけで、国内ではSRSを受けられる病院が無くなっているのが日本の現状。性的マイノリティへの支援として、SRSを受けられる環境整備も国は手助けするべきではないのか。などなど考える。
で、そんな彼はやっぱり選挙権がない。

もうすぐ投票箱のフタが閉まる。いや、既に3割の投票所では閉まっているのだけど。
古館も島田紳助も好きじゃないし、自民党議員の家族(石原良純)を番組に使うフジテレビはどうかと思うので、選挙特番は見るとすればTBSかNHK。ていうか、今観たら、フジテレビの選挙特番はコメンテーターが三宅久之に櫻井よしこって、どこまでミギですか。
こちらでは7時過ぎから急に暗雲が垂れ込め、今は雨と雷。
これは何かの予兆なのか?


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投票に行かないあなたへ [選挙]

政治不信といわれて久しい。
確かに、与党も野党も、逮捕されてみたり、スキャンダルを報じられてみたり、公約を破ってみたりと、表で声高に言う「理路整然としたキレイ事」とはかけ離れた実態が浮かび上がる事は多い。
そんな中で「いったい何を信じたらええねん!?」と誰でも思うだろうし、それが飛躍して「政治家は表じゃキレイ事を言ってるけど、裏じゃみんな悪い事やってるんだ」と政治不信になり、その不信感から「政治家も政党も、どれを選んでも同じ(だから投票に行かない)」という選択に行き着くことは、当然と言えば当然かもしれない。
政治家も、そしてメディアも、国民をそうさせてしまったことへの責任は大きい。

しかし、本当に「何も変わらない」だろうか。
なぜ、非正規雇用がこんなに増えたのか。市民税が上がったのか。北朝鮮との外交でアメリカに置いてきぼりを食っているのか。障害者自立支援法が成立したのか。環境問題が良い方向に進まないのか。医療費が上がったのか。安全な食品を食べることが難しいのか。年金記録が消えたのか。原発で事故隠しが起きるのか。天下りがなくならないのか。少子高齢化が止まらないのか。
与党がそれで良いと思っているからだ。
与党が強行採決を出来るからだ。

私たちの生活は、政治の選択によって悪くなり続けている。
そんな「悪い奴ら」が、なぜ過半数を超える数、政治家になれてしまったのか。

選挙で選ばれたからだ。

明日は天気も良いらしいし、そりゃレジャーも海も山も遊園地も水族館も素晴らしいが、投票なんてたかが数分の事だ。あなたの休日を妨げるほどの事じゃない。でも、その数分の事が、これからの何年かを決定付ける。

例えば給料を増やしたいなら、税金が高すぎると思うなら、外交を変えて欲しいなら、障害者に生きる権利があると思うなら、環境問題を解決したいなら、医療費を下げたいなら、安全な食品を食べたいなら、年金をちゃんともらいたいなら、原発を怖いと思うなら、天下りフザケンナと思うなら、少子化も高齢化も嫌だと思うなら、そして何より、不幸になりたくないのなら
明日は投票に行ってみませんか?


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事件の詳細にこだわる意味 [光市事件]

私が中学生のとき、近くの学校で体罰事件が起きた。男性教師が女子生徒を指導中に殴り、歯を折るなどの被害があったのだ。
そのとき聞いて驚いたのは「教諭が平手で殴ったか、コブシで殴ったかが問題になっている」ということだった。教師は、押し問答する中でたまたま手が当たったのであって、故意に殴ったのではないと主張していた。つまり傷害ではなく、過失だと。
そこで、被害者側は「コブシだから、殴る意図があった」と言い、加害者側は「平手が、たまたま当たっただけだ」と主張した。なるほど、確かに「たまたま当たった」なら、コブシであるはずが無い。
コブシか平手かなんて、素人からすればどっちも同じじゃないかと思うが、そのことが傷害なのか過失なのかを分けるらしい。そうやって、物理的には見えない「意思(故意の有無)」を、物理的な証拠から判断していくのが裁判なのだなぁ、と思った。

光市事件の差し戻し審で、二回目の審理が終わった。今回は法医学と精神病理学の立場から、検察側(被害者側ではない)の主張に反論するのが、主な弁護内容のようだ。
著名な法医学者二人が、そろって弁護側の主張を支持した(厳密に言えば、検察側の主張と遺体の情況が食い違うことを指摘した)ことに対して、私は、たぶんマスコミはほとんど扱わないだろうと思っていた。物理的な証拠に関してまで「弁護士のデッチアゲだ!」と言うには、さすがに無理があるからだ。
しかし、テレビを見るとそこそこ報道されている。法医学者の鑑定に対しても、特に批判していない。
だが、今度は「検察側の主張と遺体情況が違っていようが、だからって殺意が無いとは言えない。遺体の情況がどうだろうが関係ない」とマスコミは言い出している。それって、物証に基づく刑事裁判自体の否定なのでは。
もちろん、今回の主張が、本当に殺意を否定するほどの食い違いなのかは議論があるだろう。
しかし、冒頭の話に戻れば、「平手かコブシか」だけでも、故意があったか無かったかが左右されるのだ。順手だったか逆手だったか、両手だったか片手だったかが殺意の有無に関わる可能性は、充分にあると個人的には思う。
少なくとも、「検討する価値も無い些細なこと」では、決して無いはずだ。

私を含め多くの市民は、裁判を傍聴しているわけでも、裁判資料を読んでいるわけでもない。仮にそういった情報を手にしたところで、それがどういう意味を持ち、どう判断するのが司法として一般的で正しいことなのかも知らない。
だから、とかくこのような些細と思える部分に対しては「だから何?それが?」と思いがちだ。
しかし、そのような些細な事実の積み重ねによって実際の事件は起こり、些細な部分の積み重ねによって事件全体が見えてくる。いや、その中でしか事件の全容など見えてこない。
「被害者がかわいそうなんだから、事実なんてどうでも良い」と言い出してしまっては、それはもはや裁判ですらない、ただの憂さ晴らしだ。


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今のうち、民主党に言っておくこと [選挙]

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【追記】2007/07/30
後日エントリーした「日本の二大政党制はオッケーか」と合わせてお読みください。
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さて、選挙戦も残すところわずかだ。
本当は選挙中にもっと選挙ネタを書きたかったのだけど、地震があったりして先送りしてたら、いつの間にか投票日は間近である。
事前の予想では、もっぱら「民主優勢!」「与党、過半数割れか!?」が熱い論議になっている。
実際に投票箱を開けてみるまで、民主党がどれほど勝つのか、または意外と勝てないのか分からないが、おそらく大勝するらしい民主党に、言っておきたい事がある。(関白宣言?)

みんなは君を支持してるんじゃなくて、与党を倒したいだけだよ。

だって、そうじゃないか。「民主党の政策がすごく良いから、民主党に入れるわ!」って人、あんまり聞いた事が無い。
ていうか政策的には、ぶっちゃけ自民党と民主党じゃ大差ない。民主党の長妻議員も、テレビ番組で「うちは社会主義国家にしようなんて考えてる政党とは違いますから、根本的には自民党と同じなんです。どちらの方法がより良いかで判断して欲しい」と言ってるわけで。あんた社民党と選挙協力しといてその批判は大丈夫なんですか、と心配になったりするわけで。
結局のところ、二大政党制と言っても、ようは巨大な新自由主義政党が二つあるだけなのだ。
それに行き着くための方法論や、どの程度格差を拡大してもオッケーか、といった程度に違いがあるにせよ、根本的な基本理念は同じ。確かに二つの大政党ではあるけど、アメリカのように大政党同士が対立しているわけではない。
民主党に投票するであろう多くの人は、社民・共産に入れるのはアレルギーがあるけど、だかってこのままじゃヤバイ。民主党の事はよく分かんないけど、とりあえず政権変わった方が良いことありそうじゃん?的な判断じゃないんですか。
民主党が政権を取ったところで、多くの国民としては「(自公)よりマシ政権」でしかない。

とは言え、与党になったらやりたい放題だ。
小泉が「郵政民営化だけで判断しろ」と選挙をしておきながら、いざ大勝したら「支持されたから、アレもコレもソレもやるよ~。だって国民に選ばれたんだもん」と、郵政民営化以外のことも軒並み強行して見せたのと同じことが、また起こるんじゃないか。
もちろん、民主党だけで与党を形成できないから、社民党や、場合によっては共産党と連立ってこともあり得るかも知れず、そこでのブレーキ具合は強いだろう。自民党に対して、ブレーキどころかアクセルをガンガン踏ませてきた公明党との連立とは意味が違う。

とは言え、議員にとって「支持されて当選しているんだから」というのは最大の大義名分だ。それを理由になんだって出来る。というか、やってしまう。
だから、早いうちから民主党に言っておく必要がある。

君が手にしてるのは、民主Yes!じゃなく、自公No!の票なんだよ

そのことを、決して忘れないで欲しい。

続編「日本の二大政党制はオッケーか」


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韓国人アフガン人質事件 [事件、ニュース]

7月19日、アフガニスタンでボランティア活動を行っていた韓国人23人がタリバンに拘束された。タリバンは犯行声明で、アフガンに駐留する韓国・ドイツ両軍の撤退、捕らえられている兵士の解放などを要求した。
当初、7月22日午後7時30分(韓国時間)を交渉期限としていたが、その後、何度も延長。25日現在では、交渉の末、8人の人質が解放されている。

捕らえられている人々が、一日も早く、無事に解放される事を祈る。
この事件を見て思い起こされるのは、当然、日本人イラク人質事件だ。あの当時バッシングを盛んに行っていた人々も、おそらく今は「ちょっとやり過ぎたよね」程度の反省はしていると思う。
その後も外国人人質事件は何度も起きている訳だけど、今回は拘束されている人数が多い事、被害を受けたのがお隣の韓国であることなどから、日本では他国の人質事件よりも大きく扱われた。
まぁ、日本のマスメディアに、あの当時の日本の異常な反応と、今回の韓国の反応を見比べて何かを得るとか、そんな有益な作業を期待しているわけではない。
実際、「韓国内では人質の態度を問題視する世論が盛り上がっている」とか、「人質の姿勢を非難する新聞記事がある」といった報道も多く、暗に「韓国だって同じような反応をしてますよ」を臭わせようとしている。

しかしだね。あの当時、もちろんメディアも世間も大いに人質バッシングを行い、「自己責任」が流行語のようになったけれど、それを主導したのは市民の声でもメディアでもなく、小泉内閣だったじゃないか。そこがまず根本的に違うのだし、そこが一番の問題だったはずだ。
時の大臣が、危険を押してまで人道支援に行った人々を「自己責任」と切り捨ててかばおうとせず、その家族までをも攻撃の対象にした。その態度こそが「国」としての問題だったんじゃないのか。
社会にはいろんな視座があって、だから韓国でも一部の市民やメディアから「勝手に危険な場所へ行って国に迷惑をかけるな!」と、あの当時の日本と同じような批判が出る事はあるだろう。しかし、じゃあ韓国政府が、国の公式な姿勢としてそんな事を言っているのかといえば、答えはNOだ。
ノムヒョン大統領は「拉致された韓国民は医療ボランティア活動をしていた罪のない民間人だ」との緊急放送を行い、大統領がタリバン政権に語りかけるという、異例の姿勢を示した。
こうした方法(人質が行っていた活動の人道性を主張し、解放を要求する)は、実は日本ではあの当時、市民メディアが取った態度だった。様々な活動を行っている市民グループが、「人質3人が普段取り組んでいた活動を犯人達に伝え、殺害を回避しよう」と動き、人質達の日常の活動風景や、犯人への呼びかけメッセージ等の映像がインターネットにアップされたり、アラブ系のメディアに持ち込まれた。
日本の政府やマスメディアが見向きもせず、市民団体が行った方法を、いま韓国は国としてやっているわけである。あの当時の日本政府の態度と、今回の韓国政府の態度は決定的に違う。
だからこそ、韓国市民や韓国メディアが、人質をあの時の日本人と同じ言葉で非難しようとも、日本で起こった人質バッシングとはまったく意味が違う。その事を踏まえた上で、韓国で沸き起こっている(らしい)人質バッシングをとらえる必要があるだろう。

少し細かい話になるが、今回の報道を見てどうにも奇妙な事がある。この事件を報じるに際して、新聞にしろテレビにしろ、やたらと「拉致」という言葉が多用されているのだ。逆に、日本で同様の事件が起こった際に使われた「人質」や「拘束」はほとんど使われていない。
まぁ、拉致されて、拘束している事を盾に要求するから人質なのであって、同じ事といえば同じ事なんだけど、なんだかなぁ。日本人イラク人質事件とは別物だと思わせたい、と意図されているように感じる。更に深読みすれば、「韓国」と「拉致」のキーワードを同時に出す事で、近頃下火になってしまった、北朝鮮の拉致事件を思い起こさせようとしてはいないか。
アベ拉致担当総理がどうにも不人気な選挙戦の最中、この事件の報道され方について、いろいろと深読みをしたくなってはしまう。

<関連>
【韓国】アフガン人質、渡航自粛の強行入国に批判
「心配掛けた」と謝罪=アフガン拉致事件で論争-韓国教会
タリバンに対し韓国大統領「罪のない民間人だ」
下村健一の「眼のツケドコロ」 イラク人質事件と市民メディアの動き


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中国を叩けば食卓は安全か [事件、ニュース]

先週の丸激を見て反省した。番組内で宮台氏が言っていたように、私もミートホープ問題について「あまりにも偽装のオンパレードで確かに悪質だけど、見方によっちゃすごい技術じゃないか」と思っていた部分があるからだ。以前に書いたエントリー【大事件を決めるのは誰か】でも、健康被害が出ていないのに騒ぎすぎだという論調で書いた。
しかし、出演された垣田達哉さん(食品表示アドバイザー)の説明を聞いて、自分の浅はかさを思い知った次第である。「健康被害が出てないから良いとか、そんな問題じゃないんですよ!」って私に言われているようでグサッと来た。
「安易に価値判断すべきじゃない」と繰り返しブログで述べておきながら、私自身がこの有様。
お恥ずかしい限りだ。情報と向き合うって本当に難しい。

さて、今日も恥を書くかも知れないと思いつつ、更新である。
個人的にはミートホープ問題について反省させられたばかりだが、世間じゃ、食の安全問題は中国バッシングへとベクトルを変えつつある。18日のワイドショーでもTBSがかなり時間をかけて扱っており、2人の中国人ジャーナリストだか学者だかを迎えて討論させていた。
その中でメインキャスターが、思わず口走った言葉は実に象徴的だった。
「この問題の根底には、"自分さえよければいい"という中国の民族性があるんじゃないですか」
昨今の中国食品批判を見るにつけ、感じずにはいられなかった違和感の根源を、キャスターはあまりにもストレートに言葉にしてしまった。
一連の中国食品に関する報道が、食の安全について議論されているようでいて、しかし、その割には国内の添加物や農薬の話や、アメリカ産牛肉の安全性などの話がまったく話題に上らない理由はここにある。つまり、多くの中国食品に関する報道で議論されているのは、実は食の安全問題ではなく「中国人はヤバイぜ」という中国人批判ではないのか。
もちろん、中国の食品を原因に国内外で死者が出ており、重要な問題ではある。日本だって偽装も農薬も添加物もあるとは言え、少なくとも伝えられる範囲では、一部の中国食品のやり方は異常であるし危険だ。危険な食品を生産した企業に厳しい対応が必要だろうし、中国政府に対して食の安全を高めるよう要求するのも当然のことだ。
しかし、問題の根底にあるのは、例えば中国が急激な経済成長の中にあることや、中国政府の認識の甘さや基準の甘さなど、社会構造の問題であるはずだ。「中国人が悪い奴らだから(又はバカだから)平気でヤバイ食品を提供している」的な人格批判をしたって、問題は解決しない。

私がもうひとつ、この問題で大変に違和感を覚えるのは、報道を見る限りでは「日本食品は安全だけど中国食品は危険」という前提が平気で成り立っていることだ。雪印や不二家やミートホープのことを、もっとさかのぼれば、水俣病や森永ヒ素ミルクのことを、みんな忘れたとでも言うのか。
この前提って、一月前までは「ミートホープは酷いけど、他の肉は問題ない」だったわけだ。こうした一点集中バッシングで問題が矮小化されることには疑問を持つわけで、だから「ミートホープばっかり悪者扱いしてんじゃねえよ」と思い、その反動として、ある種ミートホープを援護するようなことを書いてしまった。まぁ、言い訳ですけど。
「生産している人は"自分のところの商品は食べない"なんて言うんですよ!」と、そのことが中国の特異性のように報じられているが、そんなの日本の加工食品だって同じことだ。映画「スーパーの女」にも、自分の店では買い物をしないパートさんの話が出てくるじゃないですか。
確かに今の日本では、食品を原因に健康被害が出るようなケースは少ないし、死者が出ることも極めて少ない。ミートホープも、偽装の程度に関してはかなり過剰で特異なケースだろう。
しかし一方で、表示の偽装やごまかしは日本でも広い範囲で常日頃起こっているのだし、添加物や農薬を含め、日本の食品だって様々な問題を抱えている。アメリカの牛肉を輸入するか否かも議論になっている。
ジャンクフード食べながらテレビを観て「怖いよね、中国ー」とか言ってるほうが、怖いっての。


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「命は大切」と叫ぶより大切な事 [自殺]

少し前の話になるが、7月1日の「自殺を"語ることのできる死"へ ~自殺対策新時代 官民合同シンポジウム~」に参加してきた。自殺対策に取り組む多くの団体・個人が参加し、4時間を超える長丁場にも拘らず、大変に中身のある濃いシンポジウムだった。
しかし、一点だけ非常に気になる部分があった。冒頭で紹介された、高市早苗(自殺対策の内閣府特命担当大臣)の挨拶である。
始めは国の責任で自殺対策を推し進めていく決意が述べられ、批判の声もあった削減目標の数値について説明があり、そこまでは、まぁ普通なのだが、締めくくりが意外だった。
「命は先祖代々受け継がれた大切なものです。あなたの命はあなただけのものではありません。何があっても、歯を食いしばって生きていきましょう」(記憶に基づく意訳)と、ようするに「あなただけの命じゃないんだから、自殺で粗末にしちゃいけない」的な内容だったのだ。
ついさっき、「自殺は個人の問題ではなく社会の問題です」と言っていたのに、結局は「死を選んで命を粗末にした本人が悪い」とも取れるような発言で終わった。タカ派と称される議員らしい発言だとは思いつつ、正直、愕然としたし、悲しくも悔しくもなった。担当大臣の認識がこれでは、国の自殺対策の行方が思いやられる。
高市議員は松岡前大臣が自殺したときにも「命は自分一人で得たものではなく、ご先祖さまがつないできたもの。歯を食いしばって生きていかなければ」と、同じ趣旨のコメントをしている。

私は10年近くに渡って、断続的に「自殺願望」を持っていた。「自殺願望」は、文字通りに取れば死にたい願望だが、私の経験からすれば、「死にたい」より「生きていたくない」のほうがしっくり来る。明日も辛い一日が始まる嫌なのだ。絶望的と思える未来が来るのが怖いのだ。
だから、自殺を考えている人に「命は大切だ」などと言っても、意味は無いか逆効果だ。命を粗末に思っているから自殺を考えるわけじゃない。命を大切だと思ったところで、生きることの苦痛(例えば借金やいじめ)が無くなるわけではない。生きることを放棄せざるを得ない(と本人には思える)状態の人に「命を粗末にするな!」と言っても、自分の辛さを分かってもらえないのだと、心を閉ざすだけである。
もちろん、例外はあるだろうし、様々な人がいる。しかし、それでも言えるのは、多くの自殺を予防するために必要なのは、死を禁止するのではなく生を支援する姿勢だということだ。生きていくのがあまりにも辛すぎる「生」が変われば、自然と生きていたい気持ちが沸いてくる。
そして、その「生」を担っているのは社会である。だから「自殺は個人ではなく社会の問題」なのだ。

いじめ自殺の度に流れてくる「命を大切に」を、私はずっと「命は大切だから、いじめなんかで人を死に追いやってはいけない」の意味だと思っていたから、実は「命は大切だから、自殺なんかで粗末にしてはいけない」だと知って驚愕した。
命が大切じゃないと思って死ぬ人間など、いない。仮に「私の命に価値は無い」と思っていても、それは状況によって思わされているだけであって、なんというかストレートな意味での「自分の命に価値は無い」ではないのである。それはどの年齢でも同じことだ。
自殺の原因は、死ではなく生にこそあると理解して初めて、「社会問題としての自殺対策」は、有効な道を選ぶことが出来る。


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コメンテーターはなんでも知っている? [メディア]

<お知らせ>
昨日(7月21日)「災害報道は誰のためにあるのか」に関連したニュースを追記しました。
興味のある方は文末をご覧ください。

<本題>
いわゆるワイドショーや、報道かワイドショーか分からない「情報番組」まで、ニュースを伝える様々なテレビ番組にコメンテーターが必須となって久しい。以前読んだなにかの本には、この現象はオウム事件以降、特に顕著になったとの指摘もあるが、なにしろその頃はまだ子どもだったので、私にはよく分からない。
思わず口癖で書いたが、今日はこの「私にはよく分からない」がテーマである。
コメンテーターとなるのは、芸能人やジャーナリスト、学者、弁護士、元検察官など様々である。そういった人々が、あらゆる社会問題や事件情報や政治課題について、実に迅速かつ簡潔に意見を述べることが常態化している。
彼らはいったい、いつ勉強しているのだろうか。取り上げられる内容には、かなり複雑で専門性が必要なものも多い。にも関わらず、コメンテーターの誰一人として「専門じゃないので分かりません」と言わない。それどころか、たかが数分のVTRだけで是非や問題点を判断し、意見している。そして、その意見が「権威ある人の判断」として、ある種の説得力を持って伝えられる。
考えてみれば実にリスキーで乱暴な手法だ。

これほどまでにコメンテーターが重宝されるのには、いくつか理由があると思う。
例えば製作側からすれば、特定のコメンテーターだけで番組作りをすれば安上がりである。毎日放送するタイプの番組で、すべての問題についてそれぞれ専門家を呼ぼうと思ったら、大変な手間と経費だ。いくらコメンテーターに良いギャラを払ったところで、特定のメンバーだけで日々の番組作りを出来れば、そのほうが断然安い。
そして観る側からすれば、よく分からない難しい問題について、素人だから出せる安易な意見や断定を、しかしコメンテーターという権威ある人が言うことで、安心できるのではないか。例えばコメンテーターが「コイツが悪い!」と決め付けて怒れば、自分も一緒に怒ってスッキリ出来る。
コメンテーターが固定されればされるほど、その人の性質(ごく大雑把なイメージを言えば"ミギ"か"ヒダリ"か)が分かってくるから、誰がどんなことを言うか大体は予想がつく。自分が同調しやすいコメンテーターへは過剰に同調し、自分が反発を覚えやすいコメンテーターへは過剰に反抗して、いずれにしてもガス抜きとして利用する。
そこにはお互いに閉鎖的な"ミギ"と"ヒダリ"がいるだけで、なんの発展性も無い。

もしも、毎回きちんと専門家を呼ぶと、どうなるだろう。
まず製作的には時間と手間と経費が、おそらくは今の何倍もかかるだろう。
そして番組内容としては、今まで知りもしなかった深刻な問題点が次々と浮き彫りになり、解決の難しさを予想以上に痛感させられ、安易に断定して「こうだ!」と言ってくれない番組にならざるを得ない。良識ある専門家なら、確実でもないことを断定的に語ったりしないからだ。
おかげで視聴者は、問題の複雑さにぶち当たるばかりで、見終わったあとスッキリってことは皆無になるだろう。
実際に専門家を呼んで問題の深部まで報道しているビデオニュースの視聴者から「番組を観る度に問題の深刻さを思い知り、観るのが辛い」といった意見が寄せられるのも、ある意味では当然のことだ。コメンテーターの無知ゆえの無責任な断定にこそ、多くの人は感情的に救われる。

しかし、世の中は残念ながら、難しくて容易には答えを出せない問題が山積している。数分のVTRや、少々の事前勉強で「社会」やそこで起こる「問題」を把握することは不可能で、だからこそ、コメンテーターは本当なら「分かりません」と言わなくてはならない。
安易な断定は、感情的には私たちを「安心」させてくれるかも知れないが、実際の社会を「安全」にはしない。答えを提供して解決したフリをすることは、問題を長引かせ、より見えにくくさせ、深刻化させるだけだ。
どうしようもない難解さと深刻さを、分かりにくいまま抱え続けることこそが、解決への長い近道ではないのか。


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