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「被害者の気持ちになってみろ」言説がはらむ、いくつかの弊害 [犯罪被害者]

「被害者の身になってみろ。お前だって同じ立場なら、厳罰を望むだろう」は、厳罰化を口にする人々の常套句である。もはやテンプレートだ。そりゃ確かに私も、自分自身や親しい人が被害に合えば、加害者に憎しみを抱くだろうし、殴ってやりたいとか、殺してやりたいと思う場合もあるだろう。
しかし一方で、例えば私の友人が被害者遺族になり、「今から加害者を殺しに行く」と友人が殺人計画を立てたなら、私は決して「あいつは本当にひどいもんな。殺されて当然だ」と加勢して一緒に殺しに行くことはしない。「気持ちは分かるけど、殺すのはやめとけ」と諭すだろう。
ひとつの事象に対して、立場が違えば意見や判断が違って当たり前である。そして様々な立場からの意見と判断が総合されて、社会全体は営まれる。非当事者が、非当事者として考え、非当事者として意見を述べることをやめたとき、様々な視座があってこそ成立する「社会全体のバランス」は確実に失われる。

また被害者への認識についても、「代弁者」たちは被害者=厳罰要求との単純化をして見せるが、そこに弊害はないだろうか。もちろん、事実、厳罰を要求する被害者が圧倒的多数ではある。しかし一方で、必ずしも厳罰・極刑を求めない被害者も存在するのだし、厳罰を望む場合も、何故、どの程度の厳罰を、どのように望むのかは、人によって異なる。
被害者もまた、当然ながら多様である。被害者=厳罰要求との単純構図は、そうした被害者の多様性を黙殺し、個々人の被害者と向き合うことの必要性を放棄する機能を果たしている。
例えば、真に被害者への同情から厳罰を求めるのであれば、「厳罰後」の被害者の実態を知る必要があるだろう。厳罰の結果、被害者がいかに救済されたのか(又はされなかったのか)。何故、どの程度、なにが救済されたのか(又はされなかったのか)、結果の検証なくして「被害者のためになるから厳罰」との理屈は成り立たない。
しかし、「厳罰後」の被害者に対して、どれほどの厳罰化論者が興味を持っているというのか。
厳罰化を求める多くの「自称・被害者の代弁者」たちは、その実、加害者が厳罰に処せられることでスッキリし、早く「終わったこと」にしたいだけの無責任な非当事者ではないのか。自身の破壊衝動や暴力衝動、もしくは個人的・社会的な不安の解消に、被害者を利用してはいないか。

光市事件の被害者遺族である本村さんの言葉が、私の頭から離れない。
「私の運動で厳罰化が進み、重い刑になった人がいるなら、私はその人の命も背負って今後の人生を生きていかなくてはいけないのだと思っています」(記憶に基づく意訳)
これほどの重さと覚悟を持って、厳罰を支持している非当事者がどれだけいるだろう。いや、そもそも、そんなことは非当事者に可能だろうか。私たちは、日々報道されるおびただしい数の事件情報を、怖いと感じることはあっても、それで悩み苦しむことなどほとんど無い。一ヶ月もすれば「そんなことあったね」ってなもんである。
自分の人生をかけてまで厳罰を求めることなど、しょせんは事件が「他人事」である私たちには不可能だ。被害者の心情に思いを馳せることは出来ても、共感することなど、つまり「被害者の気持ちになってみる」ことなど、出来るはずも無い。

被害者(又は遺族)が厳罰を望んでいることを理由にして、その結果の検証もなされぬままに、実際の司法が厳罰化されて行く。
厳罰化の責任を、被害者遺族に負わせて良いのか。
それが「被害者の気持ちになってみた」人々の、優しさなのだろうか。

<関連>
【殺された側の論理】
http://www.bk1.co.jp/product/02749077
【ふらっと 死刑制度を考える -原田正治さんー】
http://www.jinken.ne.jp/other/harada/index.html
【アムネスティ 死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ「河野義行さん」】
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_kouno.html


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