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裁判員制度的「金の使い方」 [司法]

裁判員制度の導入に当たって、多額の費用がかかっているようです。
まぁ、司法制度の大改革ですから当然のことでしょう。裁判官・裁判員席に座る人数が変わるので、法廷自体を改築して席を増やしたり、一般市民である裁判員にも分かりやすく説明するため、プレゼン用のスクリーンが設置されるそうです。
昨日参加した模擬裁判の法廷も、スクリーンはありませんでしたが、席は9人掛けのフォーマットになっていました。
3人席に9人ぎゅうぎゅうで座るわけにもいきませんし、一部の人はパイプ椅子って訳にも行きませんから、改築するのは良いでしょう。資料を全員に配布してとっかえひっかえやるのも分かりにくいから、スクリーンを設置するのも良いでしょう。市民参加に向けて、司法制度・裁判員制度への理解を深めてもらうための広報に力を入れる必要性もわかります。

ただ、それにしても、こんな物まで必要でしょうか。
ハンドタオル
マグネット
小物入れ
バッグ

昨日の模擬裁判でもらった「裁判員制度グッズ」です。おそらく全国で行われている裁判員制度関連のイベントでも配布されていることでしょう。
新聞の勧誘じゃないんだからさぁ・・・。
コレもらっても、新聞みたいに「一ヶ月だけとってみよう♪(一回だけ裁判員やてみよう♪)」と思う人はいないんじゃないでしょーか。ていうか、ちょっと恥ずかしくて人前では使えないかと。


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裁判員制度の広報資料 [司法]

さて、裁判員制度を想定した模擬裁判に参加してきました。
そして私は、な・なんとくじ運の悪さ(?)から弁護人になってしまいました(爆)
しかも無罪主張だったのに判決は懲役6年です。ゴメンよ、被告人・・・。
裁判員役以外の人は評議内容を知ることが出来ないので、一番知りたかった「どういう議論になるのか」は分かりませんでした。

ということで、あまり参考になりませんでしたが、帰りにもらった広報資料が面白かったです。
裁判員制度についての広報資料はいくつも出ており、私も目を通したり通さなかったりですが、今回もらった中に日弁連の作成したものがありました。実に80Pに及ぶ資料で、ページ数だけで日弁連の気合の入れ方というか危機感の強さというかが伝わってきます。原作は「家栽の人」の原作者で、監修・発行は日弁連です。
最高裁や法曹三者で作った資料はいくつか見ましたが、日弁連発行のものは初めて目にします。
で、内容的にも他の広報資料とは明らかに一線を画しています。
だいたい裁判員制度の広報資料ってのは、「難しくないよ」「法律の知識が無くても大丈夫!」「そんなに負担がかからない♪」という、参加を促すメッセージのオンパレードです。一緒にもらった最高裁発行の資料はまさにそうで、中には裁判員に選ばれる確立について「そりゃ選ばれればラッキーってな感じの確立だな!」って台詞まで出てきます。
ラッキーなんでしょうか、裁判員。

今まで目にした広報資料だと、メディア報道を参考にしてはいけない・推定無罪原則を守らなくてはいけないといった点は、サラッと形式的に説明してあるのが普通です。
しかし、日弁連の資料は違います。「弁護人としちゃあ、ソコを軽視するわけにいかん!」という気合が伝わってきます。
方式としては、仮の事件・裁判を想定して、マンガで裁判員裁判が進み、その中で「裁判員って何をするのか?どういうことが重要なのか?」を解説していくオーソドックスな物です。最高裁の発行するものと手法的には同じです。でも中身は全然違います。
日弁連発行「裁判員になりました -疑惑と真実の間で-」の特筆すべき点をご紹介しましょう。
◆メディア報道について
なぜ報道を参考にしてはならないのか?報道内容を忘れるなんて無理じゃ?と主人公が質問。
これに対し、複数の裁判員から「メディア報道が必ずしも正しくない」旨の発言。その中で、マスコミ報道は警察の話を伝聞しているだけの場合が多い、背景として記者クラブ制度がある、誤報を訂正するのは難しい、といったことが詳しく述べられ、松本サリン事件の誤報ケースを紹介している。
◆裁判に当たっての心構え
「疑問の余地が無いほどに、有罪を確信できるかどうかを考えていただくのです」
「茶の間でニュースを観るような軽い気持ちでは困ります」
◆裁判において
検察側が、それなりに「なるほど」と思える主張。
それに対し、弁護側が主張するに当たって冒頭で「裁判の席で検察官が話したことが、必ずしも真実とは限らないということも、まずは心に留めていただくようお願いします」「さきほど語られた事件のあらすじは、被告人の渋谷さんを有罪にするために、いわば検察官が主張されているストーリーなのです!」と裁判員に訴える。
◆現状の司法制度の情況
・日本の有罪率は99.9%と限りなく100%に近い。検察が充分に検討した上で起訴しているからとの説もあるが、それが職業裁判官に「訴えられた時点で有罪」との思い込みに繋がっている可能性もある。
・検察側のほうが圧倒的に情報量が多く、弁護側は捜査権限もなく人員的にも不利であるため、証拠を集める能力に大きな差がある。
・殺人など重大事件では、逮捕された人が代用監獄・拘置所に拘束される。その中で検察は自由な取調べが出来るのに比べ、弁護側は取り調べに立会いも出来ず、わずかな接見時間しかない場合が多い。
◆推定無罪原則
「裁判を受けている被告人は基本的に無罪と考えた上で、裁判員・裁判官は証拠を見ることよね!」
「まず、被告人は罪を犯していないのではないか、という合理的な疑問が残る限り無罪としなければなりません。検察官はその疑問がなくなる程度の証明をしなければならないのです」

こうした内容に、ここまで踏み込んでいる裁判員制度の広報資料を私は他に知りません。いや、私が知らないだけかも知れませんが。
裁判所の発行する資料は、市民に参加を渋られている裁判員制度について、いかに負担が少なくて難しくないかを訴えるものがほとんどです。一方で弁護人としては、「そんな軽い気持ちでやられちゃタマラン」というところでしょうか。「茶の間でニュースを観るような軽い気持ちでは困ります」との台詞は、日弁連の心の叫びのようにも聞こえます。
特にメディア報道に関して、冒頭でかなり詳細に「報道=事実とは限らない」との説明をしているのが印象的です。既にメディアが有罪化してしまった被告人の場合、報道内容が裁判員の判断に大きく影響するのでは、との強い危惧を持っていることが伺われます。

この広報資料のように充分な説明があれば、裁判員制度の導入によって被告人の利益が損なわれる可能性は低く、むしろ無罪判決が増えたりするかもしれません。
しかし重要なのは、広報資料では、報道の問題点、現状の司法制度の問題点(有罪率、代用監獄、不利な弁護人の立場など)はすべて裁判員から語られていることです。つまり裏を返せば、このような説明を職業裁判官がしてくれる保障は無い(又は基本的にしない)、って事じゃーないんでしょうか?
そうすると、こんな知識を持った裁判員がいない場合(の方が多いように思いますが)、評議の流れはかなり変わってきます。この資料では最終的に無罪判決となってますが、前著したような知識がなければ、それでも無罪が出ますかね。
まぁ、実際にはこうした点を弁護人が裁判員に説明していくことになるのでしょう。
ただ、弁護人はやはり「偏った」立場ですから、そういう人が被告人を守るために前著のような事実を紹介するのと、利害関係のない裁判員が一般的な知識として紹介するのでは、同じ内容でも印象には大きな差があります。
裁判員制度導入に当たって、検察・弁護人とも、プレゼンテーション能力が求められることになりそうです。


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裁判における弁護人×検察官×裁判官の役割 [司法]

今日は以前書いたエントリー「藤井誠二×安田好弘×メディアに見る、出会いの問題」への、反省である。
日々あげていくエントリーは、もちろん私なりに考えた結果ではあるが、それが不変でもすべてでもない。だから、ミートホープ問題安部叩きについてそうしたように、エントリーに間違いがあったと思えば普通に反省したいし、出来るだけそれを反映したエントリーもあげて行きたい。

前著のエントリーは光市事件を扱っているため、そこそこアクセスを頂き、私としても気に入っている文章の一つではある。
被害者(遺族)にも弁護人にも、それぞれ異なる正当性があり異なる悲惨さがある、という認識は今も変わらないし、「私たちは「両者の板ばさみになる」過程を経てようやく、第三者として、そこそこ正しい意見や判断をもつことが出来るのではないか。」との見解は今も変わらない。また、本来であればその媒介をなすべきメディアが、この事件に関してはまったく役割を果たしていない、との認識も変わらない。
反省しているのは、エントリー半ばにあるこの部分だ。
刑事事件の弁護士は、その職業的な立場から、加害者を憎んでいる被害者やその遺族と深く関わることは、ほとんど無い。一方で加害者とされる被告とは、これも職業的な立場から、これ以上ないほど深いかかわりを日々持つことになる。

なぜこの記述について反省しているのか、まずは下記リンク先の文章をお読み頂きたい。光市事件で弁護人を勤める今枝弁護士の言葉だ。
◆今枝弁護士の話ーその7◆
ここには、犯罪被害者(遺族)の悲惨さを目の当たりにして「不覚ながら涙を流したことは数えきれません」との体験と、「同じような被害に遭って果たして加害者の死刑を求めないだろうか」との弁護人としての葛藤と、それでも弁護士の職責を全うするのだという決意が溢れている。
つまりこれを読んで私が反省したのは、刑事弁護人がいかに悲劇の山積する中で行う「やるせない業務」であるかを、実に甘く見ていた点だ。
今枝弁護士は元検察官なので、そのためもあって特に(他の刑事弁護士よりも)被害者と密接に関わっている部分はあるのかも知れない。しかし、いずれにせよ、刑事事件の弁護人の業務は、私がイメージしていたような「加害者を憎んでいる被害者やその遺族と深く関わることは、ほとんど無い」ものなどではないのだろう。
だが、その山積する悲劇と苦しみの中で、尚も加害者(とされる被告人)の権利を最大限守ることが弁護士の職責である。
一つの殺人事件が、その瞬間だけではなく後々まで、被害者はおろか裁判に関わる多くの司法関係者までをも葛藤と苦悩に巻き込んでいく。殺人がどれだけの悲劇の連鎖と大量の悲惨さをもたらすのか、改めて突きつけられた思いだ。
上記の今枝弁護士のコメントを読んだとき、私は自分の想像力の貧困さと認識の甘さを痛感し、恥ずかしくなった。人が殺されるということの「悲惨さ加減」について、私はまったく鈍感だったと思う。

さて一方で、今回それとは別に考えさせられたのは以下の部分である。

---------------------------------------------------------------
しかし、対立当事者間の主張・立証を戦わせて裁判官が判断する当事者主義訴訟構造の中での刑事弁護人の役割は、被告人の利益を擁護することが絶対の最優先です。
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被害者・ご遺族の立場を代弁し、擁護するのは検察官の役割とされています。それが当事者主義の枠組みです。
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当事者主義の裁判においては、検察官が徹底して「被告人はこのような罪を犯しており、それ故に求刑したような処罰が適切」を証明し(=立証責任)、弁護人は徹底して被告人の立場から権利を守り、両者の主張を受けて裁判官が中立的に判断する。法曹三者がそれぞれ異なる立場から主張・証明し判断することで、正当な判決を下せる(ことになっている)仕組みである。
だから、被害者が傷つくとしても弁護人は被告人の立場に立たなければならないし、検察は充分に被告人と弁護人を追い詰めなければならないし、それを受けて裁判官は予断無く冷静な判断をしなくてはならない。どれが崩れても、マトモな裁判にならないわけだ。

今枝弁護士は「被害者・ご遺族の立場を代弁し、擁護するのは検察官の役割」と仰っているが、実際にはこれは条件付だと思う。"被害者が検察と同じ求刑を望む場合は"検察が被害者と同じ要求を主張することになるので、結果的に被害者の要求を代弁することになる。
今回のように被害者の要求と検察の求刑が一致している(いずれも死刑)とき、まさに検察は被害者遺族の代弁者かも知れない。少なくとも、裁判において被害者の代弁をなしえる立場があるとすれば、それは検察官以外にはありえない。
であるなら、被害者の要求=検察の求刑が裁判に反映されないと憤るとき、検察側への批判が出てきても不思議ではない。実際、ルーシーブラックマンさん殺害事件で無罪判決が出た際、遺族は「検察側の失敗」とコメントし、検察側が立証責任を果たせなかったことについて批判した。
念のため補足するが、なにも「遺族がそういう発想をすべきだ」と言っているわけじゃない。そのような視座もあり得る、ということだ。
検察側が職責(立証責任)を果たしていないために被害者の望む量刑が得られないなら、その責任は当然、検察側にある。もし検察が充分な立証を行うための材料が不足しているとすれば、その責任は捜査段階の警察にもかかってくる。
だが、メディア報道でも「世間」の議論でも、この裁判の不当性について語られるとき、検察側の姿勢が話題に上ることは、まず無い。


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かつての冤罪事件 [司法]

ネット環境が整うまで、テレビも新聞もない環境で大変にヒマだったので、未読の本を読んだ。
「人権を守って」がそれである。著者は私の祖父だが、別に作家やジャーナリストだったわけではない。なんていうか、よくある自費出版の自分史的なアレだ。とてもストレートな書名で、店頭にあれば突っ込まれること間違いなし。
私の祖父は、その生涯を冤罪事件や薬害(スモン病)裁判の救援活動に捧げたカツドーカであった。おかげで収益を得るような仕事は一切せず、祖母が自営業を切り盛りして生計を立てており、今でも祖母は祖父に対して複雑な思いがあるようだ。人権活動はもちろん立派だが、家族にしてみれば良い迷惑であったりもする。
しかし一方で、法律なんてサッパリで、死刑について考えたこともなかった私が、今こうして司法についてあれこれとエントリーを書き、死刑廃止論者になったことを思うと、そこには祖父のDNAを感じざるを得ない。

本書は祖父が亡くなる間際、自信の活動を振り返り、支援してきた冤罪事件を記録したものである。祖父はその生涯を島根で暮らしたため、取り上げられているのはいずれも島根県内で起きた冤罪事件だ。江津事件、石見幼女殺人事件、仁保事件について取り上げている。
とにかく驚くのは、よくもまぁこれで逮捕したな、というほどの警察・検察の荒唐無稽ぶりだ。もちろん、冤罪事件の救援活動を行っていた祖父の立場から書かれているから、その視点は中立的ではないし、相手にしてみれば反論したい部分も多々あるのだろうとは思う。
だが、例えば仁保事件での「拷問」としか表現しようの無い取調べの数々には言葉を失う。
机を叩く、恫喝するのは当たり前。なにかに付けて殴る蹴る、時には投げ飛ばす、下半身の感覚がなくなるまで被疑者を正座させ、尿意も感じ取れなくなって失禁するとまた殴る。食事もロクに与えず、差し入れも面会も禁止し、寝る間もないほどの日程で取調べを行う。更にこの間、弁護士もついていないなどなど、驚くべき情況が列挙されている。
特に衝撃的なのは、冬の夜間、外に連れ出して背中から冷水を浴びせ、うちわで扇ぐ、という通称「バサバサ」が何時間も行われたという話だ。二時間もすると被疑者は気を失ってしまう。
当然ながら被疑者は心身ともにボロボロになり、取調べ中に気を失ったり、耳が聞こえにくくなったり、幻聴まで聞こえる状態になって行く。
こうまで強引な取調べになったのは物証がなかったからで、つまり自白を引き出すことだけが、彼を有罪にしえる要素だった。結局、被疑者の男性は「一言、殺したと言えば(死刑になって)人生が終わる。しかし、言わなければこのまま殺される」との葛藤の中、ほとんど正常な判断も出来ない状態のまま、実際にはやっていない殺人を認める供述をしてしまう。
公判では無罪を主張したものの認められず、一審・二審ともに死刑判決。その後に支援の動きが広がり、広島高裁への差し戻し審で無罪を勝ち取っている。事件から18年後のことだった。

これほどまでの取調べが、今も行われているとは到底思わない。40年前の出来事だ。
しかし、一審・二審で死刑判決が下りながら、差し戻し審で無罪の判決が出たことを考えると、その取調べの過酷さとは別に、まだ司法にとって良い時代だったんだなと感じてしまう。
この事件は、一家6人全員が殺害された極めて残虐なものだ。本書に掲載された現場写真を見ても、その悲惨さには目を覆いたくなる。今の時点で同じ事件が起きたなら、間違いなくメディアで大きく取り上げられ、被疑者は早々に極悪人のレッテルを張られるだろう。無実の主張も、多くの人は「卑怯な言い逃れ」としか取らないのではないか。
まして、事件発生から二審の死刑判決までに12年が経過しており、それだけ時間がたてば、事件に対する世間の認識は動かしがたいほど固定化するに違いない。その状態で、いかに事実認定に無理があろうとも、今の裁判所が無罪判決を出すことは出来るだろうか。私にはほとんど不可能に近いとしか思えない。
いや、この事件は家族全員が殺害されて「被害者遺族」がいないから、それほど盛り上がらないのかも知れない。だとしたら、それはそれで重大な問題である。

<関連>
江津事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage349.htm
http://yabusaka.moo.jp/goutu.htm

仁保事件
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage200.htm
http://yabusaka.moo.jp/niho.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%BF%9D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

<関連>
富山冤罪事件
冤罪について


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逮捕大国ニッポンは、訴訟大国アメリカを笑えるか [司法]

先日、ドキュメンタリー映画「100万ドルのホームランボール」を観た。
バリーボンズの打った新記録ホームランボールをめぐり、訴訟大国アメリカの姿、人種差別、司法において「所有」の定義とはなにか、メディアはどうあるべきか、アメリカイズムとはなにか、などなど、多くを考えさせられる名作だった。これをコメディータッチで描けるのがアメリカなのだろう。
マックのコーヒーが熱過ぎたと訴えて何億も賠償金をもらったとか、電子レンジで猫を暖めたら死んでしまったとメーカーを訴えた人が勝訴したとか、日本では考えられない訴訟の数々について、日本人である私たちは「ありえねぇ」と思う。
それに対して怒るとか憤るのではなく、アメリカの酷さというかバカさ加減を笑うことが多い。
確かに「訴訟大国アメリカ」の姿は私たちに奇異に映るし、実際、多くの問題を抱えてもいるだろう。

しかし、日本はそれを笑っていられるほどマトモな国なのか。
<大阪府警がNさん逮捕は言論弾圧であると自白-「普通は逮捕されない」>
世界陸上に伴う野宿者の排除に抗議していた人が逮捕された。
大阪市内で使用を禁止されているディーゼル車を、昨年、市内で運転した疑い。しかし、逮捕された男性はこの車を半年以上使っていない。また仮に使っていたとしても、ディーゼル車を運転したからって逮捕・拘留は、やっぱり通常なら「ありえねぇ」だろう。

近年、こうした過剰反応とも思える「不当逮捕」が相次いでいる。
<派遣反対ビラを自衛隊官舎で配って逮捕 憲法学者ら抗議>
東京都立川市の自衛隊駐屯地に隣接する官舎の郵便受けに、「イラク派遣反対」のビラを配布した市民団体のメンバーが先月末、住居侵入容疑で警視庁立川署に逮捕されていたことが4日、分かった。(ニュース記事より)
<葛飾政党ビラ配布事件>
日本共産党に関連する僧侶が東京都葛飾区内のマンションの戸別のドアポストに日本共産党のビラを配布し、その際のマンションへの立入り行為が住居侵入罪に該当するとして逮捕・起訴された事件。表現の自由に対する弾圧との批判もある。(Wikipediaより)
<法政大学に抗議する有志一同>
大学側による立て看板の撤去や、ビラ巻きの許可制導入に反対していた学生29人が、突然、大学内に突入してきた200人(!)もの私服警官に取り囲まれ、有無をいわさず逮捕されてしまった事件です。(HPより)

ビラを配ったら逮捕される国、ニッポン。
私たちは訴訟大国を笑いながら、自身は逮捕大国への道を走り始めているのかも知れない。とは言え、ビラ配りによる逮捕事件は、立川・葛飾とも無罪を勝ち取っている。
私には理解しがたい。国家は強行採決できるほどの権力を持ち、北九州で餓死を出すほど乱暴で、死刑で人を殺せるほど暴力的なのに、なにをそんなに怯えているのか。ナウシカだったら「怖くない、怖くない」とか言ってやるところだ。
最近では自衛隊による市民運動の監視活動も問題化したが、平和主義も市民派も共産党も、このままじゃ滅びてしまいそうなほどのマイノリティじゃないか。なぜこんなに怯え、過敏になり、必死に取り締まっているのだろう。
少しでも都合の悪い芽は摘んでおきたいのか、気に入らなければ捕まえなきゃ気がすまないのか、イヤな奴が視界にいる事すら耐えられないのか、もっと他の理由があるのか。まぁ、逮捕したら逆に視界に入りまくってしまうわけですが。

訴訟大国アメリカは私たちにとって笑い事かも知れないが、自分の国が逮捕大国になる事は、どう考えても笑っていられる話ではない。

<動画>
世界陸上反対デモ
野宿者の排除

<関連>
世界陸上の予防拘束を許すな!
「世界陸上の裏舞台」…人権無視、権力不当行使なのだ!!
排ガス規制違反での逮捕について予防拘禁の復活と批判~大谷昭宏氏指摘(東京新聞)
雨宮処凛がゆく!「オール憲法違反!!の巻」

<アピール文書を転載しているブログ記事(一部)>
大阪で不当弾圧:世界陸上を前に/釜ヶ崎パトロールの会   N君を返せ~大阪で予防拘禁的な不当逮捕   大阪で「道路運送車両法違反」による不当弾圧発生   世界陸上の陰で不当逮捕   世界陸上にあわせて不当逮捕   世界陸上の影で起きていること   N君を返せ~大阪で予防拘禁的な不当逮捕   警察は不当弾圧をやめよ!   「世界陸上」やるためにN君を逮捕!   日本の司法って…


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友達が冤罪で逮捕!? [司法]

冤罪(エンザイ)。
映画「それでもボクはやってない」や、昨今明らかになった冤罪事件によって、身近な問題と思う人が少しは増えたのだろう。それでも、自分が巻き込まれることをリアルに想定するのは難しい。
日ごろ、法律やら裁判に対してエラソーにウンチクたれている私だって、本当に実感を持って想像できるかと言われれば微妙なところだ。
ところが昨日、久々に会った友人が「冤罪で逮捕されそうになった」というのだ。

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友人の住む町では、最近、町長選挙があった。現職A候補と新人B候補が対立する選挙だ。
私の友人であるCさんは、新人のB候補を応援していた。当初は事務所などにも度々顔を出していたが、家族が市役所に勤めていたため、現職町長(A候補)の対立候補を公に応援することには問題があると感じ、途中から事務所に顔を出すのをやめていた。

またCさんは新居の建築を予定しており、選挙期間中の某日、打ち合わせのために建設会社と自宅で話し合った。その日は建設会社の都合で開始時間が遅れ、打ち合わせは夜9時から深夜12時過ぎに渡って行われた。
打ち合わせを終え、建設会社は自分の都合で遅くなったことへの申し訳なさもあり、契約してくれたCさんに深々とお辞儀をしてCさん宅を出た。

Cさんが建設会社と打ち合わせをしたその日、新人B候補の事務所では。
「A候補が票を集めるために、土建屋を使ってカネをばら撒いている」との情報が入り、大きな問題になっていた。(実際、A候補は選挙後に、おそらく冤罪ではなく公職選挙法違反で逮捕されている)
そのためB候補陣営では、運動員が町内を回り、怪しい動きが無いか確認することにした。
すぐに町内を見回ったところ、深夜だというのにCさん宅では明かりがつき、家の前に何台もの車が止まっている。おかしいと思って見ていたら、今度は建設業者の人間が出てきて、Cさんに実に深々と頭を下げて出て行くではないか。
「建設業者が金を渡しに来たんだ!」
彼らは直感した。
「うちの事務所に来なくなったのはそういうことか! 金をもらって寝返ったんだ!」
彼らにはそうとしか見えなかった。

もちろん、実際は家の打ち合わせをしていただけで、建設会社もA候補との利害関係は無かった。
しかし、噂はまたたく間に広がり、数日後には「どうやらCは明日にでも逮捕されるらしい」と、町中でささやかれた。

投票の結果、B候補が当選。
その時点で「Cさん逮捕説」は町中の知るところとなっていたが、みな影でささやくだけで、本人には真意を問わなかった。そのためCさんは噂の存在すら知らなかった。
B候補の当選を受け、何も知らないCさんは純粋に嬉しく思っていた。とても厳しい選挙だったのに、よく頑張ったなぁと感心し、久々に事務所にも顔を出した。たまたま知り合いの運動員がいたので「本当に良かったね!」と熱く握手を交わし、涙ぐんで当選を喜んだ。
すると今度は、それが「涙ながらに"逮捕されそうだから助けてくれ"と懇願した」との噂に変わる。

ここまで来て、ようやく噂に疑問を持つ人が現れ、Cさん本人に真意を確かめた。
当然ながらCさんは驚愕し、すぐに誤解を解いて、なんとか問題は解決した。
後日、B候補の陣営はCさん宅に謝罪に来ている。

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まるでドラマか映画である。
幸いにしてCさんは逮捕されなかったが、自分が応援していた候補者の側から疑いを掛けられたこともあり、今はまだ人間不信なようだ。町でだれかが噂をしていると「自分のことを言っているのでは」と不安になる。田舎の小さな町の事だから、尚更だろう。
「本音と建前」的なイナカ風土も、冤罪が生まれる要因の一つかも知れないと思う。
なにしろ、Cさん逮捕説が町中に広まってからも、周囲の人々は(少なくとも表面上は)ごく普通にCさんと接していたのだ。Cさんはそんな噂があるとは夢にも思わないから、事実を説明して誤解を解くチャンスも無かった。

思い出したのは、言うまでもなく鹿児島県議選にまつわる冤罪事件だ。
「踏み字」に代表される拷問とも呼ぶべき自白強要があったことは有名だけど、そもそも、なぜ何もやっていない人が疑われたのか?はあまり注目されていない。
友人の「あと一歩で冤罪逮捕」の話を聞いて、なんのことはない偶然の数々が、いとも簡単に「信憑性のある疑惑」になっていくのだと実感した。そして、疑いをかけた人々の立場からすれば、確かに「めちゃくちゃ怪しい」と写ったのも理解できる。冤罪の元となる「事実に基づかない疑惑」が、いかにして生み出されるのかを如実に見た出来事であった。
今回は噂の域を出ないうちに騒ぎは終わった。しかし、噂が広まることで、「なぜ逮捕しないんだ」と世論から警察への要請が高まれば、それに乗せられて警察が手を打つ事だってあり得たのではないか。

私たちは誰でも、偶然の重なりや情況を根拠にして「濃厚な疑い」を作り出す。
問題は、警察が「疑い」はあくまでも「疑い」として慎重な捜査を行い、「犯人だと吐かせるため」ではなく「事実を確かめるため」の取調べをするかどうかだ。裁判官が、強要されたかも知れない自白や、単に「それらしく見える」という状況証拠だけを根拠にして、判決を下さないことだ。

<関連>
最高検が「無罪」検証報告書
冤罪は普通にあるんよね。
犯人は逃すともの精神
裁判が検証できなくなるようです。
死刑制度の是非について~死刑をするだけの冤罪防止制度がない国日本
だから取り調べを録画しないといけない
冤罪?
自白偏重主義に警鐘


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裁判員制度について聞いてみた [司法]

もうじき始まる裁判員制度について、問題点・疑問点が多く指摘されている。特に裁判員制度については見切り発車の印象がぬぐえず、不備・不十分があちこちに見受けられていることは、多くの方の指摘されている通りである。
さて、そんな中、あまり取り上げられていない疑問点について法曹三者に電話で聞いてみた。

まず、質問した項目と私の問題意識は以下の通り。
◆Q1:裁判員に参加した事によって、勤め先企業から不利益を受けた場合、企業側への罰則はあるか?
裁判員に参加した事による不利益は裁判員法で禁じられているものの、罰則がなければ拘束力を持たず、意味が無い。
◆Q2:死刑反対を理由にした辞退は認められるか?
裁判員が死刑事件を担当する場合、死刑が出る可能性のある事件に関わりたくない、等の理由で辞退することは可能か。
◆Q3:面接において、死刑が量刑に含まれない事件も死刑云々の質問があるか?
裁判員を選ぶ面接の段階で、裁判官から「絶対に死刑を出さないと決めているか」といった質問が想定されている。
この質問自体、事件内容に関わらず「内心の自由を侵す憲法違反」との指摘があり、これに対して「定められた量刑の中に絶対に選択しないものがあることは、公平な判断の妨げになる」と反論されている。しかし、そもそも死刑になる可能性の無い事件(傷害致死、危険運転致死)も裁判員が担当する可能性があり、その場合に同種の質問がされるなら、明らかに憲法違反である。
◆Q4:的確ではない人が裁判員になった場合、判決は無効となるか?
裁判員制度化で、裁判員を選ぶための面接は4分程度とされている(アメリカでは、長い州では数日から数週間、短くても一人15分程度)。被害者・加害者に知り合いがいるなど、裁判員として不的確な人間を除外するための面接だが、すべて自己申告であり、この短時間で充分な検討がされるのか疑問。
万一、的確ではない人が偽って裁判員になり判決まで行った場合、その判決は有効なのか。
◆日本の取調べ情況に関する説明はあるか?
日本では代用監獄、録画・録音なし、弁護士立会いなしなど、被告人に不利益な取調べ情況が続いている。これは国際的に見てまれなケースであり、海外から指摘を受けているところだ。自白の信用性が問題になるような事件の場合、こうした内容を知っているか否かは判断に大きく影響する事が予想されるが、裁判所側から事前知識として説明はなされるのか。
◆外国人でも裁判員に選ばれる可能性はあるか?
規定では選挙人名簿から裁判員を抽選で選ぶ事になっており、選挙権の無い在日外国人(外国籍の外国人)が裁判員になることはできない。例えば北朝鮮問題で朝鮮学校の生徒がチマチョゴリを切られるようなムードになっている場合、事件の事実性とは無関係に、外国人への意識が判決に影響する可能性は無いのか。
アメリカの陪審員制度も同様にアメリカ国籍を必要としているが、アメリカの場合にはアメリカ国籍の外国人が多数存在しており、日本とは情況が違う。

そして、実際のやり取りは以下の通り

=========================

<法務省 裁判院制度啓発推進室>
◆Q1:裁判員に参加した事によって、勤め先企業から不利益を受けた場合、企業側への罰則はあるか?
・不利益な取り扱いをしないようにとの取り決めはあるが、裁判員法の中には罰則が無い
・ただし、裁判員制度になった事による不利益な取り扱いは無効となり、取り消されると思われる。
◆Q2:死刑反対を理由にした辞退は認められるか?
・辞退理由としては定められていない
・面接の際に自己申告すれば考慮される
◆Q3:面接において、死刑が量刑に含まれない事件も死刑云々の質問があるか?
・現状では質問内容が確定しておらず、明確には返答できない
 →定められた量刑範囲内で判決が出せない、という事が質問の趣旨と考えてよいか
・良い
 →であれば、死刑が量刑に含まれない場合もで同じ質問をするのは問題が無いか
・現状では質問内容が確定しておらず、明確には返答できない
 →死刑が含まれない事件でも、絶対にこのような質問が無いとも言えないという事か
・現状では断言できない
◆Q4:的確ではない人が裁判員になった場合、判決は無効となるか?
・罰則があるので、そもそも不適格な人が偽って参加する可能性は低い
 →罰則がある以上は可能性を想定しているのではないか。仮に不適格な人間が裁判員になり判決が出た場合、その判決は無効となるのか。
・場合によると思う
 →無効になる場合もあると言うことか
・免訴、公訴棄却など、裁判員の判断が影響しない判決であれば覆らない
・裁判員の判断が影響する判決の場合、被告人が裁判員の出した一審判決を不服として控訴すれば、控訴を認める自由として検討される
◆日本の取調べ情況に関する説明はあるか?
・基本的には無い
・自白の信用性が問題になる場合、弁護側が主張する可能性はある
◆外国人でも裁判員に選ばれる可能性はあるか?
・日本国籍で選挙権を有していれば、選ばれる可能性はある

<最高裁判所>
◆Q1:裁判員に参加した事によって、勤め先企業から不利益を受けた場合、企業側への罰則はあるか?
・不利益な取り扱いをしないようにとの取り決めはあるが、裁判員法には罰則が規定されていない
・労働基準法違反に添った判断になると思われる
 →法務省では無効になると言ってるが
・無効になるとの返答について、こちらでは法的な根拠が確認できない
◆Q2:死刑反対を理由にした辞退は認められるか?
・面接する裁判官の判断による
 →裁判官によっては、面接自体を免責されることはあるか
・召喚状に質問票を同封するので、それを考慮して裁判官が検討する。
◆Q3:面接において、死刑が量刑に含まれない事件も死刑云々の質問があるか?
・裁判官の判断による
 →定められた量刑範囲内で判決が出せない、という事が質問の趣旨と考えてよいか
・良い
 →であれば、死刑が量刑に含まれない事件で同じ質問をするのは問題が無いか
・裁判官の判断によるため、明確には返答できない
 →死刑が含まれない事件でも、絶対にこのような質問が無いとは言えないという事か
・裁判官の判断による。この質問をしなさいとも、してはいけないとも規定されていない。
◆Q4:的確ではない人が裁判員になった場合、判決は無効となるか?
・無効にはならない
・控訴審で個々に判断する
◆日本の取調べ情況に関する説明はあるか?
・メディア情報に左右されず、裁判の中で得た情報だけで判断するようにといった説明はある
・取り調べ情況等、踏み込んだ説明をするかは裁判官の判断による
◆外国人でも裁判員に選ばれる可能性はあるか?
・日本国籍で選挙権を有していれば、選ばれる可能性はある

<日弁連 法制2課>
◆Q1:裁判員に参加した事によって、勤め先企業から不利益を受けた場合、企業側への罰則はあるか?
・不利益な取り扱いをしないようにとの取り決めはあるが、裁判員法で罰則は規定されていない
・不利益を受けた裁判員が民事訴訟を起こせば無効となる
・常識に照らして明らかに不当なので、訴訟を起こさなくても無効になる可能性が高い。労働基準法等に即した判断になる。
◆Q2:死刑反対を理由にした辞退は認められるか?
・裁判所の判断になるが、その可能性は高い
・裁判所の判断によっては、召喚状に同封された質問票の段階で辞退になる可能性もある。
◆Q3:面接において、死刑が量刑に含まれない事件も死刑云々の質問があるか?
・裁判所の判断によるが、おそらくはされない可能性が高い
・絶対にする・しないとは断言できない。裁判所の考えによる。
◆Q4:的確ではない人が裁判員になった場合、判決は無効となるか?
・控訴審で判断されることになる
◆日本の取調べ情況に関する説明はあるか?
・裁判所の判断によるが、説明しない可能性が高い
・自白の信憑性が問題になる事件の場合、裁判員に求められて弁護人が説明することはある。また、弁護人が法廷での主張として上記の問題を取り上げる可能性もある。
◆外国人でも裁判員に選ばれる可能性はあるか?
・日本国籍で選挙権を有していれば、選ばれる可能性はある

=========================

といった結果でした。
「可能性がある」的な曖昧な回答が多くて困ったものですが、よろしければご参考ください。
わざわざ法曹三者すべてに聞いたのは、刷り合わせが上手く行っておらず、問い合わせ場所によって違う答えが返ってくる可能性があると思ったからだ。実際、いくつかの質問に関しては、かなりニュアンスの違う回答もあった。

<公式HP>
法務省
日弁連
最高裁

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重罰化のための必要条件 [司法]

私自身は重罰化には強い疑問を持っているし、死刑制度については反対だ。そうしたことは社会から慣用性を失わせ、ひいては社会全体を荒廃させ、より「余裕の無い息苦しい社会」に繋がると思うし、死刑については「国家が公的に認める殺人」の存在に納得できないからだ。
けれど、じゃあ重罰を望む被害者をお前はどうするんだ、重罰以外の方法でどう救えるんだと言われれば、今の時点では返す言葉が無い。私は被害者救済のために具体的な行動を取っていないし、「加害者を許して心の平穏を持つ事が被害者にとっても幸せ」などという安易な救済策は口が裂けても言えない。
また今の社会的な雰囲気からして、(それが正しいかどうかはともかく)重罰化しなければ社会が納得しないだろうし、納得しないがゆえに(納得しないことが正しいかどうかはともかく)現実に社会が荒廃する事もあるだろう。
正直、自分の中でも葛藤がある。社会の重罰化要求に対する激烈さを見るにつけ「重罰化しないことによる社会の荒廃」を予想せざるを得ないし、被害者の悲痛な声を聞くにつけ「重罰化が悪いと言っているだけで許されるのか」と苦悩する。いや、許されるはずは無い。

けれど、重罰化が仮に良い事で必要な事だとしても、そのためにはいくつかの条件がある。それは倫理的な条件(人間・社会はこうあるべき)ではなく、リスク管理的な条件(この条件を満たさないと国民が危機にさらされる)である。
まず一つは、冤罪・誤判の問題である。以前にも述べたように、日本の有罪率は99.8%だ。世界中でこんな国は他に存在せず、間違いなく異常事態である。その背景には少なくない冤罪があるだろうし、また冤罪ではないにせよ、事実と違う(実際よりも凶悪な)事実認定の元での、誤った判決もまた存在する。
人間が判断することだから、そうした過ちをゼロにする事は不可能だ。それでも、例えば取調官のモラル向上や、取調べの撮影による可視化などの対策で、冤罪・誤判のリスクを出来る限り低くする事が当然の責務だ。
特に重罰化する場合、同じ冤罪・誤判に対して今より重い処遇が課されるわけで、重罰化するのであれば、その前提として冤罪や誤判のリスクを低下させる努力が必要だろう。
また一方で被害者の救済に関しても、重罰化は重罰化でするけども、それとは別に経済的な支援や、加害者との関わりや、事実の解明や、再犯率や犯罪率の低下など、様々なファクターから多面的に(より多くの)被害者救済のための努力がなされなくてはいけない。「重罰化したんだから、もういいだろ」となってしまう事が一番危険だ。
被害者は多種多様で、人によって様々な要求があり、様々な救済がある。私たちはその一つ一つと真摯に向き合い、自分たちにいったいなにが出来るかを考えなければならない。
また、例えば少年事件において、少年院への装置は軽すぎるから通常の裁判にしてくれと望む被害者がいるにしろ、現実としては少年院のほうが再犯率は圧倒的に低い。このような「被害者の望む事」と「被害者のためになる事(再犯罪率を下げること)」が残念ながら必ずしも一致しないといった事実も見た上で、いったいなにが本当に被害者を救済する有効な手段なのかを考えなくてはならないだろう。

では現在の重罰化要求は、そうした条件を満たしているだろうか。
まず取調べについて言えば、可視化に対して警察は未だに否定的である。また裁判においては、特にオウム事件以降、迅速化が強く求められている。事実解明や量刑判断への慎重さが軽んじられ、またはそうした慎重さが有害で邪魔なものとされ、「100人の無実の者が罰せられようと、一匹のネズミを逃してはならない」という推定無罪とは真逆の雰囲気が社会を覆っている。
その中で、当然ながら事実の解明は難しくなり、冤罪や誤判は増える。
一方で被害者救済に対しては、「とにかく被害者を救うためには重罰化」という単純な論理ばかりが語られ、重罰化によっては救われない被害者の存在は無視され、重罰化以外の救済方法を考える事が、さも「被害者を侮辱する」かのように思われている。このことは、昨今流行の「被害者の身になってみろ」言説を口にする人の多くが、しかし実際には、被害者のための有効な手段を模索していないことを表している。
つまり彼らは「もう重罰化したんだから良いだろ」と言いかねないのではないか。
重罰化の要求が高まる中で、皮肉な事に、重罰化の前提となる必要条件は同じ速度で失われて行っている。

例えばあと5年10年で、重罰化はかなり進むだろう。そのときになって「あれ、だれも幸せになってないじゃん」ってオチが待ち受けているとしか、私には思えないのだけど。

<関連>
冤罪と重罰化
犯罪被害者家族へのケアや報復(復讐)権について考える


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裁判員の判決は誰が責任を負うのか [司法]

裁判員制度の下では、裁判員6名と職業裁判官3名の多数決で判決が決まることになっている。
ちなみに現行制度では、裁判官3名の多数決で判決が決まっている。推定無罪の原則(疑わしきは被告人の利益に。合理的な疑問の無い範囲で)から言えば、裁判官の一人が疑いを持った時点で「合理的な疑問」じゃないのかって気もするが、その辺がどう説明されているのかは勉強不足でよく分からない。
裁判員制度に関する法務省のホームページでは「合理的な疑問」について「みなさんの良識に基づく疑問です」と説明されている。つまり、感覚だと。
更にホームページを読めば「良識に照らして、少しでも疑問が残るときは無罪、疑問の余地はないと確信したときは有罪と判断することになります」と続く。つまりは感覚的にコイツだと確信したら、そいつが犯人ですよと。メディアが既に有罪化してしまった人が被告人の場合、裁判員のだれもが多分に予断を持っているわけで、その中での「良識」が出す判断なんて裁判しなくても分かる。
ていうか、これって裁判か?

例え全員一致で判決を出した場合であっても、その後に「あの判断は本当に正しかったのか」と感じる可能性はある。袴田事件の元裁判官のように、自分の出した判決を後悔する日が絶対に来ないとは、誰にも言えない。「良識」という名の「感覚」で出した判決なら、尚のことだ。
法務省のDVDでは、いずれも全員一致で判決が出ているが、実際にはそんな裁判ばかりのわけが無い。裁判員+裁判官の間で意見が一致せず、誰かが判決に疑問を呈した場合、疑問を呈した人はもちろん、疑問を呈された人々も「あれで良かったのか」と振り返る日が来るだろう。
そしてその責任を、国も裁判所も、当然、負わない。判決に問題があったとしても、後々、後悔する結果になったとしても、「うちらじゃなくて国民が決めたことですから」と、国や裁判所はいくらでも責任逃れをすることが出来る。判決の結果を、国民に押し付けることが出来る。

裁判員制度の対象となるのは重大な犯罪の疑いで起訴された事件なので、当然、死刑事件もここに含まれる。死刑が確定し執行された後で、判決を後悔する日が来ても、回復の手段は無い。人は生き返らない。


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PFI刑務所は「小さな政府」に繋がるか [司法]

私の住む島根県ではつい先日、日本で二番目となるPFI(半官半民)刑務所が着工となった。山口県美祢市では、既に日本発のPFI刑務所が誕生している。
厳罰化が進んで受刑者が増えていく中、コスト削減と効率化がその名目である。アウトソーシングによって国費からの支出を抑える「小さな政府」路線のひとつとも言える。確かにPFIによって、税金からの支出は少なくなるのだろう。しかし、国家の権限は小さくなるだろうか。

例えば受刑者が脱獄しようとした場合、委託業者の人間は受刑者の身体拘束を認められていないので、制度上は「通せんぼ」までしか許されていない。そうやって受刑者が逃げ回っているうちに、身体拘束を許されている国の看守が通報を受けて出向き、受刑者を取り押さえることになる。
しかし、こんなことは本当に可能だろうか。脱獄されてしまえば、それを監視する任務に当たっていた従業員は、これ以上ないミスを犯したことで処分される。そのリスクを考えれば、当然ながら、規則違反をしてでも捕まえざるを得ない状況が生まれて来るのではないか。
また受刑者の管理についても、コスト削減の名の下に充分な要因が配備されなければ、もしくは民間企業のシステムに不具合があれば、許されている以上の(又は違法な)身体拘束や暴力をもって管理するしかない場合も出てくるだろう。
しかし、そうした事態が起こった場合にも「うちじゃなくてセコムの問題です」との言い逃れによって、国は責任を負わずにすむ。問題を生む状況に追い込みながら、しかし問題が起こっ場合には、その状況を作り上げた国ではなく、実際に問題を起こしたプレイヤー個人と企業が責めを負う図式になっているわけだ。せいぜい委託する業者を交換するくらいのことで、国の責任は真っ当される。

裁判員制度についても、同じようなことが言える。
6月17日付の朝日新聞・社説では裁判員制度について「裁判員制度導入にはお上まかせへの反省が込められています。戦後憲法は主権在民をうたい、国民一人一人が主役となって国政に参画し、行政を司法を監視・監督することを期待しました。」と述べ、司法を国家から国民の手に移し、司法を監視するための制度として裁判員制度が紹介されている。
しかし、これは幻想と言わざるを得ない。現実には検察や職業裁判官が判決を誘導していても、最終的には裁判員であるところの市民の判断だとして、国が判決に対して免責され得るのが裁判員制度である。
被告人にどのような暴力(身体的拘束や生命の剥奪)をふるうかを決定する場=裁判に、暴力行使の判断を下すプレイヤーとして国民を組み込むことで、国家が責任と非難を免除される構図だ。

どちらも「戦争の民営化」と似ている。戦争を起こすかどうかも、どこでどのような戦争をするかも、いつ戦争をやめるかも、国のみに権限があるにも拘らず、実際のプレイヤーをアウトソーシングすることによって、現場で起こる様々な問題について国は責任を負わなくてすむ。
それによって国は、戦争の現場でいかに戦死者が出ようと、いかに国際法違反の行為が行われようと、(実際にはそうせざるを得ない状況に追い込んでいても)責任を負う必要は無くなる。
いずれの場合も、一見すると国の守備範囲が狭くなっているようでいて、しかしその実、現場を外部委託することによって国は低コストで、責任を負うことなく、最低限の非難を浴びるだけで、より強い権力を持つことが可能になる。

裁判員制度によって、おそらくは更に厳罰化が進み、刑務所は更に拡大せざるを得ず、財政的に回らないので更にPFI刑務所が増え、それによるセコムへの天下りも増え、国側にいる人たちはオイシイ思いをするだろう。

<引用(孫引き)>
【非処罰プロジェクト「"理解"と"信頼"の裁判員制度」】
http://turedure-sisaku.blogzine.jp/sophia/2007/06/post_2e3e.html
<参考>
【萱野稔人「民営化された戦争は国家に何をもたらすか」】
http://kayano.yomone.jp/


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