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コメンテーターはなんでも知っている? [メディア]

<お知らせ>
昨日(7月21日)「災害報道は誰のためにあるのか」に関連したニュースを追記しました。
興味のある方は文末をご覧ください。

<本題>
いわゆるワイドショーや、報道かワイドショーか分からない「情報番組」まで、ニュースを伝える様々なテレビ番組にコメンテーターが必須となって久しい。以前読んだなにかの本には、この現象はオウム事件以降、特に顕著になったとの指摘もあるが、なにしろその頃はまだ子どもだったので、私にはよく分からない。
思わず口癖で書いたが、今日はこの「私にはよく分からない」がテーマである。
コメンテーターとなるのは、芸能人やジャーナリスト、学者、弁護士、元検察官など様々である。そういった人々が、あらゆる社会問題や事件情報や政治課題について、実に迅速かつ簡潔に意見を述べることが常態化している。
彼らはいったい、いつ勉強しているのだろうか。取り上げられる内容には、かなり複雑で専門性が必要なものも多い。にも関わらず、コメンテーターの誰一人として「専門じゃないので分かりません」と言わない。それどころか、たかが数分のVTRだけで是非や問題点を判断し、意見している。そして、その意見が「権威ある人の判断」として、ある種の説得力を持って伝えられる。
考えてみれば実にリスキーで乱暴な手法だ。

これほどまでにコメンテーターが重宝されるのには、いくつか理由があると思う。
例えば製作側からすれば、特定のコメンテーターだけで番組作りをすれば安上がりである。毎日放送するタイプの番組で、すべての問題についてそれぞれ専門家を呼ぼうと思ったら、大変な手間と経費だ。いくらコメンテーターに良いギャラを払ったところで、特定のメンバーだけで日々の番組作りを出来れば、そのほうが断然安い。
そして観る側からすれば、よく分からない難しい問題について、素人だから出せる安易な意見や断定を、しかしコメンテーターという権威ある人が言うことで、安心できるのではないか。例えばコメンテーターが「コイツが悪い!」と決め付けて怒れば、自分も一緒に怒ってスッキリ出来る。
コメンテーターが固定されればされるほど、その人の性質(ごく大雑把なイメージを言えば"ミギ"か"ヒダリ"か)が分かってくるから、誰がどんなことを言うか大体は予想がつく。自分が同調しやすいコメンテーターへは過剰に同調し、自分が反発を覚えやすいコメンテーターへは過剰に反抗して、いずれにしてもガス抜きとして利用する。
そこにはお互いに閉鎖的な"ミギ"と"ヒダリ"がいるだけで、なんの発展性も無い。

もしも、毎回きちんと専門家を呼ぶと、どうなるだろう。
まず製作的には時間と手間と経費が、おそらくは今の何倍もかかるだろう。
そして番組内容としては、今まで知りもしなかった深刻な問題点が次々と浮き彫りになり、解決の難しさを予想以上に痛感させられ、安易に断定して「こうだ!」と言ってくれない番組にならざるを得ない。良識ある専門家なら、確実でもないことを断定的に語ったりしないからだ。
おかげで視聴者は、問題の複雑さにぶち当たるばかりで、見終わったあとスッキリってことは皆無になるだろう。
実際に専門家を呼んで問題の深部まで報道しているビデオニュースの視聴者から「番組を観る度に問題の深刻さを思い知り、観るのが辛い」といった意見が寄せられるのも、ある意味では当然のことだ。コメンテーターの無知ゆえの無責任な断定にこそ、多くの人は感情的に救われる。

しかし、世の中は残念ながら、難しくて容易には答えを出せない問題が山積している。数分のVTRや、少々の事前勉強で「社会」やそこで起こる「問題」を把握することは不可能で、だからこそ、コメンテーターは本当なら「分かりません」と言わなくてはならない。
安易な断定は、感情的には私たちを「安心」させてくれるかも知れないが、実際の社会を「安全」にはしない。答えを提供して解決したフリをすることは、問題を長引かせ、より見えにくくさせ、深刻化させるだけだ。
どうしようもない難解さと深刻さを、分かりにくいまま抱え続けることこそが、解決への長い近道ではないのか。


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