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事件の詳細にこだわる意味 [光市事件]

私が中学生のとき、近くの学校で体罰事件が起きた。男性教師が女子生徒を指導中に殴り、歯を折るなどの被害があったのだ。
そのとき聞いて驚いたのは「教諭が平手で殴ったか、コブシで殴ったかが問題になっている」ということだった。教師は、押し問答する中でたまたま手が当たったのであって、故意に殴ったのではないと主張していた。つまり傷害ではなく、過失だと。
そこで、被害者側は「コブシだから、殴る意図があった」と言い、加害者側は「平手が、たまたま当たっただけだ」と主張した。なるほど、確かに「たまたま当たった」なら、コブシであるはずが無い。
コブシか平手かなんて、素人からすればどっちも同じじゃないかと思うが、そのことが傷害なのか過失なのかを分けるらしい。そうやって、物理的には見えない「意思(故意の有無)」を、物理的な証拠から判断していくのが裁判なのだなぁ、と思った。

光市事件の差し戻し審で、二回目の審理が終わった。今回は法医学と精神病理学の立場から、検察側(被害者側ではない)の主張に反論するのが、主な弁護内容のようだ。
著名な法医学者二人が、そろって弁護側の主張を支持した(厳密に言えば、検察側の主張と遺体の情況が食い違うことを指摘した)ことに対して、私は、たぶんマスコミはほとんど扱わないだろうと思っていた。物理的な証拠に関してまで「弁護士のデッチアゲだ!」と言うには、さすがに無理があるからだ。
しかし、テレビを見るとそこそこ報道されている。法医学者の鑑定に対しても、特に批判していない。
だが、今度は「検察側の主張と遺体情況が違っていようが、だからって殺意が無いとは言えない。遺体の情況がどうだろうが関係ない」とマスコミは言い出している。それって、物証に基づく刑事裁判自体の否定なのでは。
もちろん、今回の主張が、本当に殺意を否定するほどの食い違いなのかは議論があるだろう。
しかし、冒頭の話に戻れば、「平手かコブシか」だけでも、故意があったか無かったかが左右されるのだ。順手だったか逆手だったか、両手だったか片手だったかが殺意の有無に関わる可能性は、充分にあると個人的には思う。
少なくとも、「検討する価値も無い些細なこと」では、決して無いはずだ。

私を含め多くの市民は、裁判を傍聴しているわけでも、裁判資料を読んでいるわけでもない。仮にそういった情報を手にしたところで、それがどういう意味を持ち、どう判断するのが司法として一般的で正しいことなのかも知らない。
だから、とかくこのような些細と思える部分に対しては「だから何?それが?」と思いがちだ。
しかし、そのような些細な事実の積み重ねによって実際の事件は起こり、些細な部分の積み重ねによって事件全体が見えてくる。いや、その中でしか事件の全容など見えてこない。
「被害者がかわいそうなんだから、事実なんてどうでも良い」と言い出してしまっては、それはもはや裁判ですらない、ただの憂さ晴らしだ。


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