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自滅するメディア(後編) [メディア]

<で、メディア規制はOKか>
前編では光市事件などの事件報道の現実から、端的に言えば「いかにメディアがダメか」を述べて来た。こうした現実を見ると、もう報道なんて全部規制して、好き勝手な偏向報道が起こらないように縛ってしまえ!との感情に襲われる。それこそがまさに「メディア不信」でもあるだろう。
しかし、そこにもまた異なる危険性が潜んでいる。

国会では以前から、メディア規制が進められようとして来た。
その理由として、あるある大辞典の「やらせ」問題や、朝ズバ!の「不二家に関する誤報」」が挙げられて来たし、裁判員制度を前にして「事件報道の偏向性」は今後更に強く指摘されていくだろう。
確かに市民参加の裁判において、メディア報道は判決に大きな影響を与えかねない。
OJシンプソンの事件はアメリカでは稀有な過熱報道が長期に渡って続いたため、陪審員はホテルに隔離されてテレビ・新聞などのメディア情報と接触することを禁じられた。

しかし、国によるメディア規制がたどり着くのは、決して「偏向報道の是正」ではなく、「検閲」と「プロパガンダ」であることもまた、歴史が証明しているのではないか。安部元首相が、従軍慰安婦問題を扱ったNHKの番組に圧力をかけたと指摘されたことを考えても、政治によるメディア介入が危険をはらんでいることは「過去の話」では決して無い。
メディア規制は国民の「知る権利」を容易に阻害するし、報道の公共性を失わせるし、その帰結としてメディア自信の存在理由を失わせる。そしてミャンマーで起きた記者殺害のような最悪の事態に陥ることもある。
ミャンマーでの記者殺害については、まだ「言論弾圧としての殺人」であったか定かではないが、写真を見るとカメラを構えた記者を狙い撃ちにしているようにも見える。
これについても多くの新聞は遺体を削除して掲載しており、「仲間」の死を前にしてまで「遺体を掲載しない」とのテンプレート的な社内規定を守ることしか頭に無いのかと、皮肉にもメディア不信が一層高まっている。
もし、この事件が「言論弾圧」である可能性をメディアが積極的に取り上げ、その悲惨さと危険性を遺体写真をもって証明したなら、新聞労連の抗議も説得力を増すことが出来たし、場合によっては「やっぱりメディア規制はいけないわ」との世論に繋がったかも知れないのに。

報道規制は殺人にも繋がりかねないほど「危険なこと」なのだから、本来であればメディアは、規制や「検閲」から逃れるために、自浄作用があることを明確に示さなければならない。
事実誤認に基づく報道や偏向報道に厳しい対応を見せ、政府の関与が無くてもマトモな報道が出来るのだと証明し、報道の自由がいかに大切であるかを国民に理解してもらう必要があるのだ。それが出来なければ「あんな酷い報道ばかりやってるんだから、規制されて当然」との声が強くなるばかりだ。今はそうなってしまっている。
誤報や偏向報道を是正していくことは、もちろん報道被害に合っている人(例えば松本サリン事件の河野さん)のためでもあるわけだけど、長期的に見ればメディアが存続するためでもあるし、メディアによって情報を得る国民の利益を守るためでもある。
にも拘らず、平気で事実誤認・偏向報道を繰り返している現状は、「どうぞ規制して下さい」と言っているに等しい。まさに「自分で自分の首を絞めている」わけだ。

日本のマスメディアは日々、自滅の道をたどっている。
それに気づいていない訳ではないと思うが、やはり目先の利益=視聴率が勝るということなのか。
しかし、誤報や偏向報道を理由にしてメディアへの規制が進めば、視聴率が落ちるとか何とかより、よほど甚大な不利益になる思うのだけど。

<関連>
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