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佐藤真が亡くなる社会だからこそ [自殺]

9月4日に自殺によって亡くなったドキュメンタリー映画監督、佐藤真さんの著書「ドキュメンタリー映画の地平」(上下巻)を読んだ。本書は優れたドキュメンタリー映画論として知られ、教科書的な本である。私自身、自殺の問題があったからではなく、純粋に教科書として本書を読む立場にあったため読んだに過ぎない。
本書が書き上げられたのは7年前の2000年。そのとき佐藤さんがどのような精神状態だったのか私の知るところではないが、まさか7年後にこのような亡くなり方をするとは、ご本人も想像していなかっただろう。だから、彼の作品や著作について、この死につなげて考察することは適切でないかもしれない。
それでも、私や著者の意図に反して、本書を読めば読むほど、著者が亡くなったことに思いを馳せざるを得ない自分がいる。
具体的な死の真相については知る由も無い。ただ、本書ににじみ出る著書の人柄を思うとき、「なぜ死んだのか」よりも「誰が死んだのか」を深く考えさせられる。

残念ながら生前お会いする機会はなかったが、自殺を機に出されたいくつかの追悼文や、また本書を読むと、非常に真面目で真摯な方であったことは容易に想像がつく。それは映画制作や執筆活動においてだけではなく、後進の育成に当たる上での真剣な態度からもそう感じる。
本書にしても、その全編に佐藤さんの真面目ぶりと謙虚さ、そして被写体にカメラを向ける「加害者としての自分」への自責の念があふれ出ている。その謙虚さは「あとがき」に特に顕著だ。
「最後まで本書におつきあいいただいた読者の方々には甚だ心苦しい限りではあるが、」
「こんな出版不況の御時世に、上・下ニ巻の、しかも地味で暗いドキュメンタリー映画の本を出版するはめに陥った凱風社の苦境を思うと、冷や汗ばかりが出る。」
と、冒頭から、本書が上下二巻(700ページ余り)の長編となったことについて、読者と出版社への申し訳なさが語られる。
また、ドキュメンタリー映画の実作者である著者が自作を引き合いに出すとき、そこにはいつも、極めて照れくさそうで謙虚な姿勢がある。「あとがき」には「恥ずかしいほど寡作ではあるが、私もドキュメンタリーの実作者の端くれである」といった記述すら見受けられる。
もちろん、実際には佐藤真は日本を代表するドキュメンタリー映画監督の一人であり、「阿賀に生きる」など名作を残している。

この人が、亡くなったのだ。
本書を読み終えて、ため息混じりにそう思った。それは著者の意図に反する失礼なことかも知れない。私自身、死にとらわれることなく、著者が本書で真に論じようとしたドキュメンタリー論にこそ耳を傾けなければならないと思った。そして、その作業も私なりにはしたつもりだ。
けれど、それでも。それでもだ。
やはり私は「この人が亡くなったのだ」という事実に胸をつかまれる。
自殺対策シンポジウムのとき、自らの思いを切々と語った自死遺族の言葉が思い出される。
「あんなに強かったお父さんが生きていけなかった社会で、私はどうして、生きていくことが出来るんだろう。お父さんが生きていけない社会って、いったい何なんだろう」

その問いに向き合いたいからこそ、私は、死なない。


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