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藤井誠二×安田好弘×メディアに見る、出会いの問題 [光市事件]

藤井誠二は主に教育問題・少年犯罪を中心に取材してきたルポライターである。10代の頃に読んだ宮台真司との共著「学校的日常を生きぬけ - 死なず殺さず殺されず」は、当時、不登校で半引きこもりだった私にとって絶大なる「救いの書」であった。それ以来、特に教育問題の点では藤井誠二にずっと好感を持ってきた。
だから今、彼が力を入れている「厳罰化推進」の論調には複雑な気持ちだ。
被害者の声を最重要視するような「現場主義」に対して、ルポライターである彼自身も当初は疑問を持っていた。しかし、多くの犯罪被害者(特に少年犯罪被害者)遺族と接し、法制度によってまったく救われない遺族と寄り添う中で、厳罰化が必要であるとの認識に変わって行ったという。特に光市事件の被害者遺族である本村さんとは長年に渡って付き合いがあり、今回の裁判についても、弁護側の主張や、弁護団の人間性について自信のブログで繰り返し批判している。
一方、安田好弘は光市事件の弁護人である。多数の脅迫状と懲戒請求の的になっている張本人だ。彼は当初、学生運動時代の反省を踏まえて、政治的な活動に参加しないことを自身への戒めとして決めていた。しかし、弁護士として多数の被告(特に死刑事件の被告)と出会い、死刑制度の残虐さや矛盾を目の当たりにし、時には死刑になった加害者の遺体を家族とともに引き取る中で、いち弁護士としてだけではなく、死刑廃止運動家としての活動を始める。

人を左右するのは出会いである。
知らない人については好き嫌いを言いようもないし、正しいか否かを判断しようも無い。逆に知り合えば、それが被害者であれ加害者であれ、その人間性に触れることで否が応でも情が移るし、それぞれの立場から、現行制度の不備や矛盾を痛感する。
死刑廃止論者だった弁護士が、自身の家族が犯罪被害を受けたことを契機に、死刑存置論者に変わった例がある。これを見て厳罰化論者の人たちは「死刑廃止なんてキレイ事で、実際の事件と出会えば厳罰化が正しいと分かることの証拠だ」というが、私はそうは思わない。
問題は出会いだ。刑事事件の弁護士は、その職業的な立場から、加害者を憎んでいる被害者やその遺族と深く関わることは、ほとんど無い。一方で加害者とされる被告とは、これも職業的な立場から、これ以上ないほど深いかかわりを日々持つことになる。加害者を憎む被害者と出会わない弁護士が、司法の立場から厳罰に疑問を呈するのは「正しい要求」であるし、一方で加害者を憎む被害者と出合った人たちが、その立場から厳罰化を求めるのも「正しい要求」である。
厳罰化要求も死刑廃止要求も、それぞれの立場からすれば、当然の、正当性のある要求である。
そのようにして、人は「出会い」を超えられない。

だが私たちはたいていの場合、重大犯罪の被害者とも加害者とも、出会わない。もちろん観念的には、社会に生きるだれもが被害者になる可能性も加害者になる可能性も秘めているが、現実生活としては、当事者になることも、当事者と知り合いになることも、かなりの確立で、起こらない。
それでも私たちは、日々起きる事件について判断し、あれこれと意見を言い、時にはそれが現実の社会を突き動かす。
では、私たちはどうやって「事件」に「出会って」いるのか?
言うまでも無く、メディアを通してである。
メディアを通して事件の概要を知り、被害者や加害者の人間性を把握し、判断し、あれこれと意見を言う。もしも被害者・加害者側から均等に情報が入ってくれば、第三者である「世間」は「いずれも悲惨で、それぞれにある程度正しい」両者の前で板ばさみになり、悩み、苦しみぬくしかないはずだ。事件報道を見るのは、それが単純に悲惨だからというだけではなく、両者のいずれにも異なる悲惨さがあることを知り、ひどく辛い作業になるだろう。

しかし、現実にはどうだろうか。
光市事件の報道で、大手メディアの流す情報はひどく偏っている。被害者遺族が絶対的な正義として反論を許されない存在になり、弁護側が何を言っても、その主張は「荒唐無稽」との前提でしか伝えられない。そして、遺体の状況と検察側の主張が異なっているといった物理的な疑問は、ほぼ、報道されない。「弁護団は裁判を死刑廃止運動に利用している」との見方も、本村さんがそう感じていると発言しただけで、なんの検証もなされないまま「前提」になっている。
そんな中で、弁護側への脅迫が相次ぎ、1000件を超える懲戒請求が届く。事件の報道を目にする人々は、被害者遺族とともに涙し、加害者とその弁護団への怒りを爆発させることで、場合によっては日常生活の鬱屈までもを解消する「ストレス発散」の場として利用している。
そのほうが気持ち良いだろうし、メディア側にしてみれば収益に繋がるだろう。
しかし、繰り返すが、正当性はどちらにもあるし、悲惨さは被害者にも死刑囚にもあるのだ。私たちは「両者の板ばさみになる」過程を経てようやく、第三者として、そこそこ正しい意見や判断をもつことが出来るのではないか。
今のメディアは、私たちの「出会い」を補完しているとは、到底、言いがたい。

<参考書籍>
【学校的日常を生きぬけ - 死なず殺さず殺されず 】
http://www.bk1.jp/product/01564342
【殺された側の論理 - 犯罪被害者遺族が望む「罰」と「権利」 】
http://www.bk1.jp/product/02749077
【「生きる」という権利 - 麻原彰晃主任弁護人の手記 】
http://www.bk1.jp/product/02584329
<関連ブログ>
【光市母子殺人事件のマスコミ報道】
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_4929.html
【週刊誌とワイドショーのインチキ報道に騙されるな】
http://ruhiginoue.exblog.jp/tb/5732553


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コメント 1

wada

わかる部分もあります。
でも
>繰り返すが、正当性はどちらにもあるし、悲惨さは被害者にも死刑囚にもあるのだ

と言う部分だけはわかりません。

落ち度なく死んでしまった若いお母さんと赤ちゃん・・・。
それと自らの欲望のために残虐で非道な行いをした報いとして死刑になるかもしれない元少年が全くの同列と言うのは普通の感覚からしたら(この言葉はお嫌いかもしれませんが)理解できません。
by wada (2008-01-29 16:37) 

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