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良い弱者、悪い弱者 [総論]

犯罪被害者である原田正治さんが、死刑に疑問を呈する活動をする中で、「お前みたいな奴は悪い被害者だ」と、攻められたエピソードがある。
厳罰を望む被害者を善とするにせよ、加害者を許す被害者を善とするにせよ、非当事者が「望ましい被害者」を作り上げること自体が傲慢だと私は思うが、たいていの場合、社会は弱者を無条件には救済しない。自分の望む弱者しか許さない。
社会が「弱者」を救済しようとするとき、そこには必ずと言って良いほど「救済すべき良い弱者」と「救済の必要が無い悪い弱者」が作り上げられる。

まぁ、これは「ブスなら性格ぐらい良くなきゃどうしようもない」とか、そういったアレと同じ低レベルな話なのだけど、そう言って笑ってもいられない。あまりにも影響が広範で強いからだ。
例えば、ひたむきで純粋な障害者は認められても、私のような怠け者で屈折した障害者は認められない。純真で一途な同性愛者は認められても、浮気者で優柔不断な同性愛者は認められない。日本に強制的に連行された在日は認められても、進んで日本に来た在日は認められない。善良な黒人は認められても、素行の悪い黒人は認められない。HIV訴訟の際にも「薬害でエイズになった人はかわいそうだけど、性感染でなった人は自業自得」といった論調があった。
本当に、ありとあらゆる弱者問題、差別問題において、この「良い弱者」「悪い弱者」というラベリングは機能し続けている。そして、このラベリングが、現に救済されるかされないかを左右してしまう。

更に言えば、こうしたラベリングが引き起こすのは、単に「悪い弱者」とされた人々が救済されない事だけに留まらない。「良い弱者」が救済される事で、さも差別問題が解決したように思われ、どんなに弱者が「差別するな!」と要求しても「そんなの過去の話でしょ」と門前払いを食らうのだ。
それが正当な要求であっても「もう救ってやったのに、まだ贅沢言ってる」と思われてお仕舞いになってしまう。
実際には多くの問題が残り、多くの弱者が困窮していても、一部の弱者を救済した事を理由に「終わった問題」とされていく傾向がある。昨今、まだまだ多岐に渡る差別が残っているのに、差別問題というとどうにも「古い話」のように思われてしまう理由の一端がここにある。

もうひとつ、こうした問題が深刻なのは、実はこの「良い弱者」「悪い弱者」というラベリングを、当事者である弱者自身もしてしまいがちだと言うことにある。

長くなるので次回に続く。


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