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ネット復活 [雑記]

早くもPCが戻ってきたので、また通常通り更新して行きます。
それにしても早いな。
ありがとう、Dell!

休んでいる間にコメントをたくさん頂き、すべて返信できなくてすいません。
でも全部読んでいますので、これに懲りずにまたいらして下さい。

ワタクシはちょっと、餃子とか作ってきます。夜までには本記事を更新します。


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セケン様とか、そういうの [総論]

あまり恵まれたネット環境にないので(今日もネカフェです)、サラッと雑記的なものを更新します。
コメントを返せなくてすいません。

橋下弁護士の主張に代表されるように、ネット上では得体の知れない「世間」を名目にした批判が、とても多い。こうした主張をする人は「遺族感情」を名目とした主張をする人とだいたい同じ層のようにも思う。
橋下弁護士のブログにしろ答弁書にしろ、出してくる文書には相変わらず「世間の風」が多用されている。懲戒請求問題で引き合いに出される「世間」が何物であるかについては、モトケンさんのところで非常に適切なコメントを引用していらっしゃるので、一部孫引きしたい。
http://www.yabelab.net/blog/2007/09/26-095640.php
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一方、社会一般と一口に言いますが、この実態はなんでしょうか?
「この事件における社会一般」にはとりあえず法曹は含まれないようです。政治関係者も含まれていないように思います。被告人を罰する前に議論を尽くすべしと考える人も含まれていないようです。この事件にそもそも関心の無い人も含まれていないでしょう。少なくとも私も含まれてはいないようです。

こうやって実態を考えていくと、「社会一般」とは実は「この事件に関心があって、法曹(政治)関係者でもなく、被告人を議論の余地無く厳罰に処すべしと考えるグループ」であるようです。

こんなグループの正義と、日本の平均値の正義が乖離しているのは、考えるまでも無く当たり前なのではないでしょうか。一致するはずがありません。

他方、この(論無く厳罰に処すべし)グループに属する人々は自らのグループ分けを厳密に成すことなく、自らのグループを「グループ:(日本-法曹関係者)」と表現しているような節があります。
 論に言及するときは異論を挟む人間や無関心な人々を排除しながらも、勢力に言及するときには排除した人間も含めるという、おかしな形態になっているのです。
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で、つい5分ほど前に「あぁ、そうか」と気がついたのは、私がこうした「世間は~」論に強い違和感を持つ根源に、きわめて個人的な人生経験からくる感情があることだ。
私はずっと「世間様」から阻害される立場にあった。
その「世間」は時に「正義」や「常識」を名乗るわけだが、身体障害者で学校にも行かず母子家庭で育ち、10代の頃に同姓と付き合ったこともある私は、いつもその枠からはみ出し、「世間様」や「常識」に繰り返し糾弾されて来た。
例えば「身体障害のある人ほど純粋で頑張り屋」との「常識」からはみ出して「同情できない」と言われ、「学校に行って当たり前」との「常識」からはみ出して「甘えてるだけの怠け者」と言われ、「両親がそろっていて当たり前」との「常識」からはみ出して「愛情を知らない人間に育つ」と言われ、「女は男(だけ)に惹かれる」との「常識」からはみ出して「同性愛なんて異常だ」と言われた。
ありとあらゆる「正義」と「常識」から、そしてそれらの言葉を発する「世間様」から、私はいつだって零れ落ち、それ故に攻め立てられてきた。
その結果、10年にわたって「自分に生きる価値なんてない」「私みたいなやつがいるから社会がダメになるんだ」と妄想的なまでの自己否定にさいなまれ、自殺願望を持ったり、リストカットを繰り返したりした。
私にとって「正しい世間様」は、いつも私を排除し、殺そうとする何者かだった。

だから死刑制度についても、私は本当は制度そのものよりも、それを支持する「悪いやつは殺されて当然」との「社会的な正義感」にこそ恐怖を覚えているのかもしれない。私は多くの場合、社会的に「悪いやつ」とされる場に立ってきたからだ。
「いつか社会によって排除され、殺されるかもしれない」という恐怖心は、今なお、私にとってリアリスティックで身につまされる感覚であり続けている。


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抽選的、死刑執行制度 [死刑制度]

「法務大臣の了承無しで死刑執行できるようにしたい」発言について昨日触れましたが、どうも私は発言を誤解していたようです。
いくつかこのニュースを扱ったブログを拝見したところ、大臣が望んでいるのは「何らかの基準に即した順次執行」ではなく「乱数で抽選的に執行」との意味だそうです。マジかよ!

まぁ、当初から「乱数」って言葉を使っているわけで、「乱数」の国語的な意味を考えれば「ロシアンルーレット的な抽選処刑」しかありえないわけですが、まさか一国の大臣がそこまでトンデモな発想をお持ちだとは夢にも思わなかったため、考えが及びませんでした。
法務省の役人に説教でもされたのか、再任直後に発言を「修正」していますが、改めて大臣の人柄を感じました(悪い意味で)。
抽選で処刑になるということは、高齢者でも障害者でも再審請求中でも冤罪の可能性が高くても、その状況・事情にかかわらず、無作為に「当たったら処刑」ということです。こうした発想がどれほどアリエナイかは、あえて論をつくすまでも無いかと。

それにしても、発言の真意を知って、改めてそんなやり方が死刑制度への反発を呼ばないと本気で考えているのか不思議でなりません。
まぁ、ヤフーのWEB投票では80%がこの発言を支持しているようなので、今の日本は「どんどん殺しちゃえば良いじゃん!」ってことなのかも知れませんが。だから本当は、この発言のありえなさにも論をつくすべきなのかも知れませんけど。
なんだかなー。


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また休止・・・ [雑記]

昨日のエントリーに続報を追記しました。
で、大変残念ながら、またしてもしばらくブログを休止します。

昨夜、PCの電源を入れたらファンが高速回転してOS起動せず
異常ランプが点灯していて、調べたらビデオカードぽかったので抜き差ししたけど改善なく
ビデオカード無しならファンは大丈夫ですが入れると現象再発=ビデオカード異常っぽい

念のためメモリ抜き差しとC-MOSバッテリの放電をしたところ
今度はメモリが入らなくなりました(爆)

そんな訳でPCを修理に出します。2週間くらいかかるかも・・・。
ちょっと前に「地図が読めない女」や「片付けられない女」が流行りましたが
これからは「PCパーツを元に戻せない女」の時代ですね!
パソコンなんてわかんな~いじゃなく、外せるけど戻せない、ってところが新しいです。

冗談はさておき。
数日お待ちくださいませ。


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オートマチックな死刑執行は存置を助けるか【追記あり】 [死刑制度]

◆お知らせ◆
カテゴリー分類が難航して来たため、追加・整理しました。 

今日は別の話題をUPする予定だったが、無視できないニュースが入ってきたので、そちらを。

<死刑>「執行は自動的に」… 鳩山法相、辞職後の会見で
(9月25日 毎日新聞)

 鳩山邦夫法相は25日、内閣総辞職後の記者会見で、死刑制度について「判決確定から半年以内に執行するという法の規定が事実上、守られていない。法相が絡まなくても、半年以内に執行することが自動的、客観的に進む方法がないだろうか」などと述べた。法相の信条や宗教的理由で左右される現状に疑問を呈した形だ。
 鳩山法相は「(執行命令書を出す)職責から逃げようというのではなく、『次は誰を執行』という話題になることがいいとは思えない。(確定の)順番なのか、乱数表なのか分からないが、自動的に進んでいけば『次は誰』という話にならない」と続けた。また、法務省が執行の対象者を公表しない現状については、「遺族感情や他の死刑囚の心情などがある」と、公表になじまないとの見解を示した。
【坂本高志】

この話がどういう文脈で出てきたか記事を読むだけでは明らかではないため、特に後半の「『次は誰を執行』という話題になること」云々に関しては意味がよく分からない。どこで「『次は誰を執行』という話題」が出ているんだろうか。
いずれにしろ、この記事を読んだとき私は戦慄を覚える他なかった。それが誰であれ、人の生命を「数字」や「データ」としてし認識し、「事務的な処理」として処刑することに躊躇を持たない鳩山議員の人間性が克明に見える。
しかし、感情的に反応するのは避けたい。もちろん、人の生死が関わる問題である以上、それに対する感情は極めて重要であるが、個人的にはそうした感情論・人権論から少し距離を置きたい思いがあるからだ。

上記の鳩山議員の要望は、死刑執行の順番を何らかの基準によって決め、それに添ってオートマチックに執行して行けというものだ。
現行法において、死刑執行は基本的に確定から半年以内とされているものの、一方では法相の同意も必要としていることが、矛盾する結果を生んでいることは事実だ。実際、刑確定から半年以内に処刑されるケースなど、まず無い。
これをして、現行法の規定が事実上守られていないから、運用面でもきちんと守るべきだ、というのが彼の主張である。しかし、その「守るべき現行法」を半年以内という期限のほうだけに置くことは、まず不公平だし、非常に恣意的だと感じる。何故、半年という規定は守るべきで、法相の同意が必要という規定は守らなくても良いのか。その根拠はいったいどこにあるのか。
そしてこの発言は、法務省や歴代の法務大臣自身が「死刑執行は慎重な判断が必要」と言い続けてきた歴史をも一気に覆すものである。
時期を考えれば光市事件でまたしても「死刑になって当たり前だ!」と世論が盛り上がった直後であり、その「世間の風」を言い訳にして、法相の重責を回避する発言とも取れる。

就任直後の「犯罪抑止力として死刑制度は必要」との発言にも共通して感じるのは、鳩山議員が死刑制度について積極的に発言する一方、死刑制度そのものについてずいぶん無知だということだ。死刑による犯罪抑止能力は未だ明確に証明されておらず、疑問を呈する声のほうが多い。
鳩山議員は今までの発言からして明確な死刑存置論者な訳だが、であるなら、執行をオートマチックにすることによる「死刑を存置する上での弊害」については考えなかったのだろうか。
私は現在の慎重な死刑執行という体型が、死刑確定者の命を守る側面もある一方、死刑制度を存続させる力にもなっていると思っている。
もし期限に従って自動的に死刑が執行されることになれば、当然ながら執行数は劇的に増える。そうした事態に感情的な反発を覚える人もいるだろうし、国連やEUからはより大きな批判を呼ぶことになるだろう。(もちろん、だから死刑廃止のためにガンガン処刑せよということではない)
特に、法務省が「執行順序の基準」を明確にすれば、反発は尚更である。
実際に執行されている人々を見ると、そのほとんどは家族から見放されるなどして外界との交流を持たない人々だ。つまり罪の軽重や確定からの時間ではなく、表立って悲しむ家族がおらず、誰からも見放された(故に執行への反発・妨害が比較的低いと予想される)順に執行していくことが、実質の「執行順序の基準」になっている。
それを明文化・数値化してハッキリと表明した場合、国内ですらその不公平な基準に対して疑問を持つ人が出ることは容易に想像できる。死刑制度そのものに異を唱える声は、むしろ大きくなることも考えられるだろう。
実際今でも、むしろ死刑廃止論者のほうが「なぜ執行がこの人だったのか、理由を明確にしろ」と、求めているくらいだ。
だからと言って、罪の軽重や確定からの時間を主軸にして基準を決めてしまえば、執行することで大きな反発を呼ぶであろう政治犯なども執行せざるを得ず、それはそれで強い反対に繋がる可能性をはらんでいる。

そうした、死刑制度を取り巻く、建前だけでは語りきれない様々な要素を無視して、「ガンガン執行すれば死刑制度を強化できる」という単純な発想には首をかしげる。
そもそも、前大臣の長勢議員にしても、なぜ大臣職を追われるという瀬戸際のタイミングで、人命に対して慎重な態度を取れないのだろうか。いや、むしろ辞職をひかえているからこそ、聞いてもらえるうちに言いたいことは言っておけってことなのか。

新内閣発足は今夜だという。だれが時期法務大臣になるのか、注目したい。
この発言が次期大臣への布石とならないことを願う。

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【追記】2007/09/26 15時頃
再任を受け、続報です。
「バンバン執行」って言葉が、(たぶん)あえてじゃなくストレートに出てくるところが、この人らしいですね。
乱数発言については修正されたようです。法務省の役人に怒られたのかしら。
なんにしろ勉強されるのは良いことです。結論ありき、でないなら。

<鳩山法相>死刑執行のあり方巡り勉強会開催の意向
(9月26日 毎日新聞)

 福田内閣で再任された鳩山邦夫法相は25日夜、法務省内で記者会見し、死刑執行のあり方について「『この大臣はバンバン執行した、この大臣はしないタイプ』などと分かれるのはおかしい。できるだけ、粛々と行われる方法はないかと考えている」と述べたうえで、改善も視野に入れた勉強会を省内で設けたい意向を示した。
 死刑執行はその重大性を考慮し特に慎重を期する必要があるとされており、法相の命令が必要となる。鳩山法相の発言の背景は、執行が行われなかった杉浦正健元法相時代(05年10月~06年9月)と、計10人の執行命令書にサインした長勢甚遠前法相(06年9月~今年8月)など、法相の信条や宗教的理由で左右される現状に対する疑問があるとみられる。
 一方、再任が決まる前の同日午前にあった会見で「(死刑確定の)順番なのか、乱数表なのか分からないが、客観性のある何かで事柄が自動的に進んでいけば『次の執行は誰』という話にならない」などと述べたが、夜の会見では「乱数表などと言ったのは少し反省している」と表現を修正した。【坂本高志】

【再追記】2007/09/26 16:30頃
どうも私は発言を誤解していたようです。
私の予想をはるかに超える「抽選処刑にしちゃえばいいじゃん」発言だったようなので、改めてエントリーを書きました。


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「難民は差別語」という発想に差別意識はないのか? [貧困]

先月、「ネットカフェ難民」は差別語だ…業界団体が声明発表を見て、ネカフェ難民についての統計調査に業界団体が反発していることを知り、じゃあ国の統計調査自体の信憑性も怪しいんじゃないか、といった趣旨でエントリーを書いた。
一方で「難民は差別語」って言葉にも大変引っかかりを覚え、今日と同タイトルでエントリーしようと思っていたのだけど、引越し準備にかまけているうち、かめ?ブログで同趣旨のエントリーがあったので、他の人が書いてるならまぁ良いやーと思って放置していた。
しかし、またしてもですよ。
ネットカフェ業界 遠のく女性客…「難民」呼称に反発

まず「難民なんて差別的な呼称は失礼」という発想に「じゃあ本当の難民は差別されて良いんかい」という疑問は0.5秒くらいで沸くが、それについては前著かめ?ブログと重複するので置く。
この話題について、私がまた別の面から憤りを感じるのは、ごく端的に表現すれば「お前が言うな」って問題だ。
「『住居喪失不安定就労者』はサウナやファストフード店にもいるだろう」「ネットカフェだけに、そういう人がいるという印象を与える」と業界団体は怒っている。
そりゃ確かに、マックにもサウナにも「難民」はいる。けれど、マックなんて定期的にバイトが起こしに来るし、だいたい机に突っ伏すか椅子にもたれかかるしか寝る方法も無い。一方でネットカフェは、シャワーを完備するなど「どうぞ泊まってください」という体制を作り、明らかに「難民」を始めとする宿泊客をターゲットに商売している側面がある。
当初は「便利だからたまたま」定住できない人々がネカフェ・マンガ喫茶を使っていたにしろ、今は店の側が宿泊客を一定の客層と捕らえて商売をしているじゃないか。今や、宿泊客の需要がなければ、それはそれで客足は減る。特に深夜はネカフェ難民を始めとする宿泊客あっての収益であり、ネカフェ難民あっての24時間営業という側面もあるはずだ。
それを棚に上げて「うちだけにいるわけじゃない」とか言われても、困ったもんである。

私もネカフェには何回か泊まったが、あんな狭い部屋なのに毎日泊まれば月4万円近くなり、安価なアパートと変わらない。その上、料理も冷凍食品・スナック菓子でぼったくっているわけで、そこで生活せざるを得ない「難民」から散々儲けているから、店からすれば確かに「大切なお客様」だ。
しかし、じゃあなんで「他の場所にもいる」とか言って存在を隠そうとするのか。もっとおおっぴらに「ネカフェ難民歓迎!」「足を伸ばして眠れます!」とか宣伝しても良いくらいじゃないか。
そうしない理由は、彼らの訴える客足の減少にあるわけだ。
家を持たない人々に対するイメージが悪いのは、もちろんネカフェのせいではない。社会全体の差別意識の問題だ。そして、実際にネットカフェで暮らす人は、いわゆる「浮浪者」イメージと一致しないことも承知している(浮浪者イメージと一致すれば差別して良いのかという問題は置く)。「難民」の言葉から想起される誤ったイメージが、収益減少に繋がっているのは確かに事実なんだろう。
けれど、それでも疑問に思うのは、彼らが「ネカフェ難民」から実際には暴利とも言える金を儲けておきながら、一方で一般女性客には「うちにはネカフェ難民なんていませんよ、安心してください」と言っているように見えることだ。
そのダブルスタンダードを、私なりの悪意に満ちた独断と偏見で解釈すれば「ネカフェ難民には儲けさせて欲しいが、他の客が減るから、来てるってバレないようにしろよ」とのメッセージに思える。


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被害者バッシング×弁護団バッシング [犯罪被害者]

多くの「注目事件」で、重罰を求める犯罪被害者・犯罪被害者遺族(※以下、多用するため「遺族」と表記)がメディアで大きく取り上げられる今日この頃。被害者感情を盾に弁護人へのバッシングが相次ぐ一方で、遺族へのバッシングも起きている。
もちろん弁護士バッシングに比べれば「量」には歴然と差があるものの、量が少ないから良いとか、そういう問題でもない。
批判内容としては、声高に極刑を訴えるなんて人間性を疑うだとか、遺族の立場を利用して利権(金銭的・社会的地位など)を手にしているだとか、あいつは性格が悪いだとか、態度が悪いだとか、顔が気にくわんだとか、とにかくまーナントカカントカ。
また一方で「許すことが出来ないなんてかわいそう」「相手を恨んでも亡くなった被害者は喜ばない」といった、極めて「良心的」な「同情」も見受けられる。
弁護団へのバッシングや、まだ被疑者段階の人へのバッシングにも憤りを覚えるが、こうした遺族バッシングを目にするともっと別の感情に襲われる。それは、憤りを通り越して明らかに怒りであり、グロテスクなものを見せ付けられたことへの嫌悪であり、形容しがたい「この上なく嫌な感じ」だ。

遺族に対して、個人的な好き嫌いや、やり方に対する賛否があることは理解できる。「被害者救済運動」としての考えや方法について批判の余地はあるし、それが完全なタブーになっている現状を問題だとは思う。
しかし、それはそれ。仮に非人間的でムチャな方法を取る遺族がいたとして、だからといって彼・彼女らの「絶対的な悲劇」には変わりが無いし、気に入らないからといって権利が奪われて良いはずも無いし、侮辱されていいはずも無いし、攻撃されて良いはずも無い。だいたい、個別事件に当事者がどう対峙する「べき」かなんて、赤の他人が云々すべきことなのか。
また問題だと思うのは、というか私が死刑廃止論者として特にヤレヤレと思うのは、遺族に否定的な発言をする人に死刑廃止論者や重罰化反対を掲げる人が少なくないことだ。
重罰化論者が、自分の考えと異なる遺族(例えば死刑廃止を訴える遺族)を批判する場面を見聞きしたことは無いが、死刑廃止論者や重罰化反対論者が、遺族に否定的な意見を述べるケースは、ネット上で散見される。
こうした死刑廃止論者・重罰化反対派の行動が、自身への「狂信的なサヨク」「加害者の権利ばかり主張して被害者の権利を守らない」といったイメージを更に強化していく。
まぁ、そもそも重罰化論者のほうは、現状では圧倒的多数だから、共感しない遺族にわざわざ反応しなくても済むわけで、単に無視しているとも取れるけど。
いずれにしろ、結局この社会はいつも、自分にとって「良い弱者」と「悪い弱者」を選別し、気に入ったほうだけに手を差し伸べるのだとつくづく思う。重罰化論者の多くは、重罰を求める遺族だけにを根拠に主張し、死刑廃止論者や重罰化反対の人間の多くは、同じ考えを持つ遺族だけを根拠に主張する。

昨今、重罰を要求する遺族が「発見」されて来たことで、出版に繋がったり、団体の役員になったりと、社会的な影響を与えることもある。遺族感情が大きく報道されることで、社会が呼応して現実の制度や司法に影響を及ぼすことも実際起こっている。
それを見て、死刑廃止論者や重罰化に反対する人々が「あんなことを言う遺族さえいなければ」と「あってはならない否定的な気持ち」を持つことは、状況的には理解できる。
しかし、だ。
例えば今より刑罰が軽かった時代の遺族は、極刑を望む人がいなかったのか。死刑を廃止している国で、「犯人を殺してやりたい」と感じ、発言している遺族はいないのか。
そんなわけは無い。
遺族にはどんな感情を持つ自由も、どんな要求をする自由もある。問題は、それをメディアが「絶対的な正義」として報道するかどうかであり、司法がその要求を現に実行して見せるかどうかであり、社会が遺族の極刑要求に加勢して「殺せ!」と叫ぶかどうかだ。
つまり、私たち「第三者」側の判断こそが問題なのである。社会の悪さ加減の責任を遺族に押し付けるのは、卑怯な逃げに過ぎない。それは、本当は自分の加害衝動から弁護人バッシングをしている人間が「遺族が怒っているから」と、遺族感情を免罪符にする状態とさほど変わらない。

偏向報道が起きるのも、弁護人がバッシングされるのも、重罰化も、死刑制度がなくならないのも、司法が崩壊していくのも、私たちの責任であって遺族のせいではない。また、なにが遺族にとって「救い」で「あるべき精神状態」かなんて、赤の他人が規定するにはおこがましすぎる。
私は死刑廃止を望み重罰化に反対しているが、そのことは遺族が応報によって救われる可能性を排除するのだから、ある意味では重罰化論者よりも一層、真剣に遺族感情に耳を傾け、打開策を模索すべきだと考えている。


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佐藤真が亡くなる社会だからこそ [自殺]

9月4日に自殺によって亡くなったドキュメンタリー映画監督、佐藤真さんの著書「ドキュメンタリー映画の地平」(上下巻)を読んだ。本書は優れたドキュメンタリー映画論として知られ、教科書的な本である。私自身、自殺の問題があったからではなく、純粋に教科書として本書を読む立場にあったため読んだに過ぎない。
本書が書き上げられたのは7年前の2000年。そのとき佐藤さんがどのような精神状態だったのか私の知るところではないが、まさか7年後にこのような亡くなり方をするとは、ご本人も想像していなかっただろう。だから、彼の作品や著作について、この死につなげて考察することは適切でないかもしれない。
それでも、私や著者の意図に反して、本書を読めば読むほど、著者が亡くなったことに思いを馳せざるを得ない自分がいる。
具体的な死の真相については知る由も無い。ただ、本書ににじみ出る著書の人柄を思うとき、「なぜ死んだのか」よりも「誰が死んだのか」を深く考えさせられる。

残念ながら生前お会いする機会はなかったが、自殺を機に出されたいくつかの追悼文や、また本書を読むと、非常に真面目で真摯な方であったことは容易に想像がつく。それは映画制作や執筆活動においてだけではなく、後進の育成に当たる上での真剣な態度からもそう感じる。
本書にしても、その全編に佐藤さんの真面目ぶりと謙虚さ、そして被写体にカメラを向ける「加害者としての自分」への自責の念があふれ出ている。その謙虚さは「あとがき」に特に顕著だ。
「最後まで本書におつきあいいただいた読者の方々には甚だ心苦しい限りではあるが、」
「こんな出版不況の御時世に、上・下ニ巻の、しかも地味で暗いドキュメンタリー映画の本を出版するはめに陥った凱風社の苦境を思うと、冷や汗ばかりが出る。」
と、冒頭から、本書が上下二巻(700ページ余り)の長編となったことについて、読者と出版社への申し訳なさが語られる。
また、ドキュメンタリー映画の実作者である著者が自作を引き合いに出すとき、そこにはいつも、極めて照れくさそうで謙虚な姿勢がある。「あとがき」には「恥ずかしいほど寡作ではあるが、私もドキュメンタリーの実作者の端くれである」といった記述すら見受けられる。
もちろん、実際には佐藤真は日本を代表するドキュメンタリー映画監督の一人であり、「阿賀に生きる」など名作を残している。

この人が、亡くなったのだ。
本書を読み終えて、ため息混じりにそう思った。それは著者の意図に反する失礼なことかも知れない。私自身、死にとらわれることなく、著者が本書で真に論じようとしたドキュメンタリー論にこそ耳を傾けなければならないと思った。そして、その作業も私なりにはしたつもりだ。
けれど、それでも。それでもだ。
やはり私は「この人が亡くなったのだ」という事実に胸をつかまれる。
自殺対策シンポジウムのとき、自らの思いを切々と語った自死遺族の言葉が思い出される。
「あんなに強かったお父さんが生きていけなかった社会で、私はどうして、生きていくことが出来るんだろう。お父さんが生きていけない社会って、いったい何なんだろう」

その問いに向き合いたいからこそ、私は、死なない。


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「信じる」という不合理な行為の可能性 -今枝ブログによせて- [総論]

光市事件の弁護人の一人である今枝弁護士のブログは盛況だ。まだ開設して数日にも拘らず、記事によってはコメント数が上限の100を超えているものもいくつかある。厳しい文字数制限のために長文を分割して投稿している面があるにせよ、賑わっていることは間違いない。
その中で、とても感動的な事態が起こっている。
遺族感情や「世間」を理由に弁護団(と管理人である今枝弁護士)に批判を重ね、周囲がいくら反論しても耳を課さないように見えていた投稿者の態度が、変わり始めているのだ。
当初、彼(彼女かも知れないが)はブログにあげられた資料=弁護団の提出した事実をニュートラルに検討することをほとんどせず、「事実がどうだろうと、世間も被害者も許さないんだから当然死刑」という態度に見えた。
周囲の人々が弁護団の主張をいくら丁寧に説明しようとも、また司法制度・弁護士の役割を説明しようとも、理屈はともかく許せんもんは許せん!という頑なな態度に見えた。

私は正直、さっさと削除して投稿を制限してしまえばいいと思っていた。
こういう人はいわゆるガチの人であって、説得になど応じないし、事実になんて興味は無いし、例えいかに反論が適切であっても、自分の正義・信念を曲げない。相手が非を認めて「私が悪うございました」と述べるまで、身勝手な批判を繰り返すだろうと感じていたからだ。
ところが事態は変わりつつある。
弁護団の主張に対し疑問を投げかけ、批判的であることは今も変わらない。しかし、その態度は以前のようなものではなく、弁護団の主張に対する素直な疑問へと変容している。つまり私から見れば「マトモな批判」に変わって来ているのだ。
これについて、今枝弁護士も、一時は彼(または彼女)と激しいやり取りを繰り返していたモトケンさんも、率直な喜びをコメントしている。

私はここに、いわゆる「囚人のジレンマ」にも通じる「信頼」の問題に対して、深い示唆を勝手に読み取る。
人を信じることはとても不合理だ。なぜなら、人は裏切る。それは決して珍しいことではない。相手が変わってくれることを信じ、いくら真摯に説得しようとも、そんな期待はいくらでも裏切られる。
だから、自分の利益を合理的に追求すれば、裏切るかも知れない相手など信じず、その存在を排除してリスクを減らすほうが合理的だ。相手を信じて裏切られたときの不利益は、決して小さくない。
しかし、一方で「信じない」という合理的な選択は、人々を互いに疑心暗鬼にさせ、排他的にさせ、常に裏切りと排除の恐怖にさいなまれる不利益を生む。
そこから抜け出すためには、あえて「信じる」という極めて不合理な選択をするしかない。
もちろん、裏切られるかも知れない。でも、裏切られないかも知れない。どちらにも確証は無い。
もしも、互いに裏切るかも知れない存在である私たちの、双方に幸福が訪れるとすれば、それは人々が互いを信じ、現に裏切られない、という性善説としか言いようの無い「お気楽」な情況でしか成立しない。
しかし、その「お気楽」な情況もまた、現に生まれることがある。

※黒文字部分の「」は私の主観であり、実際のコメントを引用しているわけではありません。


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「死刑廃止は正しいから裁判を利用してもかまわない」のか? [死刑制度]

昨日は友人と飲みに行って、最後のほうで少しだけ光市事件の話になった。ちなみに私も友人も、死刑廃止を望んでいる。
で、マスメディア報道からの情報しか得ていない友人が「死刑廃止は正しいことなんだから、それを裁判で訴えてなにが悪いの?」と言ったのを聞いて、なるほどそういう考え方もあるのかと驚いた。
更に今日はこんなブログも見つけた。
「光市母子殺人事件の裁判報道~弁護団はほんとに悪か? 」
冒頭に「法廷をイデオロギー闘争の場にしてると言うけど、現に死刑になろうとしている(なるかもしれない)人の裁判でイデオロギーに従うのはいけないんでしょうか?。 これこそまさに闘争の最前線じゃないのでしょうか?」とあり、彼もまた、弁護団が死刑廃止運動に裁判を利用しているとの視点に立った上で、弁護団を援護している。

まず前提として、光市事件の弁護団が、この裁判を死刑廃止運動に利用している、というのは事実誤認である。
参加している弁護士22人の死刑に対する考え方は多様であり、全員が死刑廃止論者ではない。
また、本件において弁護団は「死刑が違憲である」といった死刑制度自体を否定する主張はしておらず、あくまでも死刑のある現行法を前提として、死刑のある現行法の基準において、本件は死刑に相当しないと主張しているに過ぎない。
だから、今回の裁判に対して「思想のために裁判を利用することの是非」を語ること自体が無意味だ。思想のために裁判を利用している事実が無いのだから。

それを踏まえた上で、じゃあ本当に死刑廃止論者が廃止運動という「(主観的には)正しいこと」のために裁判を利用したとして、それは許されるだろうか。
弁護人が法廷で死刑廃止を訴えることが許されるケースがあるとすれば、被告人自信が死刑廃止論者であり、被告人自信が死刑廃止を法廷で訴えてくれるよう、弁護人に望んだときのみである。例えば「私は確かに現行法では死刑に相当することをやったが、そもそも死刑制度自体が違憲なのだから、死刑判決は妥当ではない」と被告人が主張するときなどだ。
ちなみに、その場合は弁護人が個人的に死刑廃止論者であろうと存置論者であろうと、「死刑制度は違憲」との主張をすることが職責である。
被告人の意見を無視し、弁護人が自らの思想に走った主張をすることは、例えその主張が「世界平和」であろうと「貧困の撲滅」であろうと、思想内容を問わず、被告人への誠実義務違反として弁護人失格と言うしかない。
だから、「弁護団が死刑廃止運動のために裁判を利用し、被告人に荒唐無稽な証言を押し付けて裁判を捻じ曲げようとしている」と吹聴されている光市事件の弁護団に対して、その前提を信じる人々が非難を浴びせるのは当然だし、(その前提が事実である場合には)正当な批判である。

弁護人はまず何よりも被告人の権利を守る仕事であって、個人的なイデオロギーは、社会運動なり政治的な場ですれば良い。少なくとも、(被告人の意に反して)法廷ですることは許されない。
刑事裁判はことによると被告人の生涯が決まる場であって、ましてや死刑事件なら生死を左右する場だ。その中で、被告人の存在を無視し、自らの主張を行うことは、結果的にその主張(例えば死刑回避)が被告人の利益に繋がるとしても許容できるものではない。
その思想が真に「正義」であったとしても、正義のために個人の人生をないがしろにすることは、弁護士業務としても、人間的な倫理としても、決して許されるべきことではないだろう。
私自身は死刑廃止論者だが、被告人の意に反して死刑違憲を主張するような弁護士がもし出てくることがあれば、それについては大いに反論する。


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