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お知らせ&中国で日本人に死刑判決 [死刑制度]

引越し準備のため、23日までお休みします。
ちょっと東京へ行ってきます。

今度ともよろしくお願いしますです。

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気になるニュース
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麻薬密輸の2邦人の死刑確定=最高裁が執行を検討-中国
【大連(中国遼寧省)20日時事】
中国で麻薬密輸密売罪などに問われた日本人2人に対する控訴審の判決公判が20日午後、中国・大連市内で開かれ、遼寧省高級人民法院(高裁)は2被告の控訴を棄却し、執行猶予なしの死刑判決とした一審判決を支持した。中国は2審制のため、2人の死刑が確定した。
 死刑が確定したのは元暴力団組員、武田輝夫被告(64)=名古屋市出身=と鵜飼博徳被告。
 同法院は刑の執行について「最高人民法院(最高裁)の許可を得る手続きを取る」としており、最高裁が最終決定することを明らかにした。中国で日本人の死刑判決が確定するのは初めてで、最高裁は慎重に検討するとみられる。 
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中国の人が同じ罪を犯せば、中国ではほぼ間違いなく死刑なのでしょう。
だけど北京オリンピックも控えているし、最近の日本人は死刑も推奨だが中国嫌いも相変わらずだし、そんな最中に中華航空の飛行機が沖縄で炎上したし、その辺を加味してどういう判断を下すのか注目。そして日本のメディアと「世間一般」がどう反応するかも注目。
まぁ、あんま取り上げられないかも知れませんが・・・。

この判決に対して「麻薬密売はそりゃ悪いけど、だからって死刑は無いんじゃないの」と思うのは、月並みな感想だろう。
しかし死刑廃止国から見れば、日本の死刑判決は(それがいかなる罪でも)、すべて「死刑は無いんじゃないの」なわけだ。で、そんな国に自国の被告人を引き渡さない国は当然ある。
日本では代用監獄があり、取調べに弁護士は立ち会えず、取調べの録画・録音も出来ず、といった事情があるので、在日米軍が犯罪を犯しても日本に引き渡してくれなかったりする。
世界では既に死刑廃止国が多数派である事に対して「死刑は日本の文化だから、他の国がどうだろうと関係ない!自国で判断すべき問題だ!」とか言うのは自由だが、司法制度は国際問題にもなり得るって事を頭の隅くらいには置いて頂きたい。

この点については、後日またゆっくりと。


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安部内閣は死刑も「強行採決」するのか [死刑制度]

安部内閣は前国会において、実に20回近い強行採決を行った。教育三法、米軍再編法、国民投票法、政治資金規正法などなど、いずれも慎重な審議が必要であるものを、尋常ではない早さで強行採決して行ったことは記憶に新しい。
内閣支持率が急落を始めてからも、安部政権が強行採決の手を緩めることは無かった。むしろ「この内閣は近々潰れるだろうから、今のうちに通せるだけ通しておけ」とも見える態度であった。

大敗した選挙結果を受けた今、安部内閣は今月末頃を目処に人心一新を図る。一説によればほとんどの大臣が交代になると伝えられている。現内閣では閣僚の不祥事が相次ぎ、わずか10ヶ月の間に3人の大臣が辞職し、1人が自殺する結果となった。
当然の事ながら、次の内閣ではスキャンダルの無い人物を閣僚に据える必要がある。
そんな中、長勢法務大臣の交代は濃厚である。彼には多くの「政治とカネ」に関する疑惑が浮上しているからだ。
長勢法相側に50万円 外国人研修団体、ビザ照会後に献金
「日本精神科病院協会政治連盟」からの政治献金
「裏帳簿団体」という政治資金の「ろ過器」
このような人物が、引き続き大臣の職に就けるはずも無い。

長瀬大臣は「自分の任期中に10人の死刑を執行する」事を目標にしていると囁かれている。昨年のクリスマス執行、今年4月末のGW前(国会会期中)執行で、既に執行人数は7人。あと3人の命を奪えば「目標達成」である。
退陣が迫る今、長勢大臣にしてみれば、死刑執行は「今やらなくていつやる」という状況だ。そうでなければ、自分の「業績」に納得できないのかも知れない。安部首相が、自分の政権下で憲法を変えなければ納得できないのと同じように。

窮地に追い込まれたとき、人間には様々な判断の仕方がある。なぜ追い込まれたのかを深く考える人もいるだろう、それによって反省する人もいるだろう、責任の取り方を考える人もいるだろう。
しかし、どうやら安部内閣の人々は窮地に立たされたとき、そろいもそろって「今のうちにやっておけ」とばかりに、残りわずかな権力で悪あがきをするようである。
退陣に追い込まれようとしている今、長勢大臣は最後の特権を使って死刑を執行しようとしている。これはまさに「死刑の強行採決」であると感じる。

死刑制度が、ましてや死刑の執行が、被害者のためであるなんてマヤカシだ。
いつだってこんなふうに、内閣の勝手な事情や、大臣の勝手な信念や正義のために、人の命が奪われる。

<関連>
【死刑執行危機 近日中の死刑執行が危惧されています。】
保坂展人のどこどこ日記「安倍「続投」政権、さらに暴走か」


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長勢大臣への手紙 [死刑制度]

アムネスティによれば、近々、死刑が執行される可能性が高まっているようだ。
こういう「もうすぐ死刑が執行されるらしいぞ」との情報が何を根拠にしていて、どうやって流れてくるのかいつも不思議なのだけど、今回はその根拠についていくつか思い当たるところがある。
まず一つには、一部情報によると、長勢大臣が「在任中に10人の死刑を執行する」と宣言していることだ。一方、前回の選挙結果を受けて安部首相は人心一新を宣言しており、長勢大臣も職を辞する可能性が高い。とすれば、それまで(つまり今月中)にあと3人の死刑を執行しなければ「目標達成」とならない。
こうした背景が、「もうすぐ死刑が執行されるらしい」との情報に繋がっているのではないか。

私はもとより死刑制度に反対だが、存置が仕方ないとしても、一時的な政権の都合や勝手な「人生目標」で命が奪われる事などあってはならない。
この事態を受けてアムネスティは、大臣に執行停止を求めるメッセージを送るよう呼びかけている。
【死刑執行危機 近日中の死刑執行が危惧されています。】

というわけで、微力ながら私も大臣にメールした。以下がその内容である。
(文中のリンクは、ブログ転載のために追加したもの。「」部分はホームページにおける長勢大臣の発言を引用したもの)

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法務大臣 長勢甚遠様

厳しい選挙結果を受け、心中をお察しいたします。
ホームページで長勢大臣の政策、またお考えについて、遅まきながら勉強させて頂きました。学生時代から、なにが正しい事なのか、自分はどう生きるべきかを深く考察されてきたのだと知り、大臣の実直さに感銘を受けているところです。

さて、安部総理は人心一新を宣言され、ほとんどの大臣が交代か、との見方も世間では広がりつつあるようです。仮に長勢議員が法務大臣の職を辞されるのであれば、今こそ、法務大臣にとっての重責である死刑執行について、深くお考えの事と推察いたします。
大臣が「"まっすぐの"人生を生きる -子供のころから変わらぬ信条-」で仰るように、人間には真理は分かりません。だからこそ「時流に流されず自分で考える」ことや「自分で考え、正しいと感ずることを命がけで行う」ことだけが、真に正しい道をまっすぐ歩むための道しるべであると存じます。
しかし、真理を知りえない人間という存在が、天から与えられた他人の生命を奪う事は許されるでしょうか。死刑執行において、大臣が「崖に落ちることを覚悟して後ろ向きに」進まれた結果によって、崖に落ちるのは、皮肉な事に大臣ご本人ではありません。そこで失われるのは、言うまでもなく死刑囚の命です。「自分で考え、正しいと感ずることを命がけで」行われるとき、その正しい事が死刑執行であるならば、命をかけているのは大臣ではなく死刑囚なのです。

いずれの人生観も、ご自身への戒めとしては大変に謙虚で、ご尊敬申し上げるところです。
しかし、その決意によって損なわれるのが、大臣ご自身ではなく他人の命のであるとき、その命をかける事は許されるでしょうか。「生きている以上は正しい」との論理が、死刑囚は死んだのだから正しくないと他人の命に介在することは許されるでしょうか。
なぜ大臣のような慈悲深い方が、7人もの命を奪うという判断をなさったのか、私にはどうしても理解できません。

現行法について、それを遂行するだけが法務大臣の職務ではありません。
長勢議員が法務大臣としての職務を全うされる事を、心よりお祈り申し上げます。
また、大臣の賢明なご判断により、死刑が執行されないことを信じます。

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かなり「ほめ殺し」の文章で申し訳ない。
もちろん「死刑は残虐だ」「執行するな」と呼びかけることは大切だが、大量の死刑執行を国のためと信じて疑わないであろう長勢大臣に、どんな言葉なら届くのかを私なりに考えた結果である。
大臣の退陣まで、今後も引き続きメールして行きたいと思う。

<関連>
緊急アピール協力お願い:長勢法務大臣、死刑を執行しないでください!


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中国の死刑制度に「刑罰とは何か」を見る [死刑制度]

今日、中国で一人の元高級官僚の死刑が執行された。
649万元(約1億円)のワイロを受領した他、ニセ薬品を承認した罪で死刑判決を受けていた鄭篠萸(前国家食品薬品監督管理局長)である。今年5月末に1審で死刑判決が出され、6月22日に控訴が棄却されたことで、死刑が確定していた。
今回の執行は中国においても異例の早さである。また判決自体も、中国国内で驚きを呼んでいた。他の高官による汚職が1億元(約15億円)を超える事件も少なくない中、汚職官僚への死刑判決は減少していたからである。汚職額649万元での死刑判決は、極めて異例のものであった。

この判決と執行について考えてみたい。まず一環して言えるのは、中国政府は明らかに、この事件を一種のサンプルとして「見せしめ」にしていることだ。
まず判決である。この事件が発覚する前から、中国国内ではニセ薬品・不良薬品の被害が大きな問題となっていた。また、時を同じくして、国外からも食品や医薬品の安全性についての批判が徐々に高まっていた。内政でも外交でも、中国製の食品・薬品の安全性に対して疑問が投げかけられ、強い非難が飛び交っていたわけだ。
そんな中、食品・薬品の認可を担当する任務にあった男が逮捕される。汚職だけではなく、見返りとしてニセ薬品の承認まで行っていた。政府にしてみれば格好のスケープゴートである。国民からしても、強い憎悪の対称だったのかも知れない。
だからこそ、異例の死刑判決だ。
中国政府は、国内外の市民に「私たちは安全性を大事にしてますよ。それを破るような人間、汚職する官僚は厳しく罰しますよ」とのメッセージを、そして官僚には「汚職したら、場合によっちゃ殺すぞお前ら」という脅しを、死刑判決を出すことで示したと言えるだろう。
そして、今日の執行。日本でも、中国産のうなぎが問題になって以降、急激に「中国産の食品は危ない!」的な報道が増えたなと思っていた矢先である。そして執行と同じ日に、政府5部門が異例の会見を行い、いずれも輸出食品の安全性を強調した。1つの執行と5つの会見をトータルに見れば、中国政府のメッセージは「薬品の安全を脅かすような奴は、殺してでも厳重に処罰します。私たちはそれほど安全性を重視していますよ。だから中国産の食品を食べてね」と、そういうことになる。

中国は世界一の死刑大国だ。世界の全執行の90%近くを中国が占めており、アムネスティの調べによれば2006年だけで1000人以上、2004年は3400人の死刑が執行されている。
もちろん、人口が多くて犯罪者も多いから死刑が多いとか、そういうレベルの話ではない。とにかく死刑に対するハードルが異常に低い。今回は汚職と不正承認で死刑だが、他に中国で死刑が適応された例としては、麻薬密売、売春、性犯罪、横領、脱税、ガソリン強盗、有害食品の販売などなど。ちなみにパンダの密猟も、以前の最高刑は死刑だった(現在は終身刑)。
一方で最近、中国の死刑制度には変化があった。中国の処刑方法は、長年に渡って銃殺による公開処刑だった。人権の観点から国際的な非難を浴び続けてきたが、変わることは無かった。
しかし。2008年の北京オリンピックを前に、2007年以降は公開処刑を行わないと宣言している。

私は別に、中国政府がいかに異常かとか、野蛮かとか、そういうことを言いたいのではない。もちろん死刑制度について中国のやり方は世界的に見て異常だし、人間的に見て野蛮だが、今回のことで考えたいのは違う点である。
それはつまり、「刑罰は国民のものでも被害者のものでも無く、国家の占有する道具である」ということだ。一人の犯罪者を糾弾することで政府が非難を逃れたり、一人の犯罪者を厳罰に処すことで内外に政府の態度を示したり、刑罰の方法を変えることで国際社会からの承認を得ようとしたり、そういった政治的な道具として刑罰は有効なわけである。
「刑罰」という制度そのものが、「うちらの国は何をどの程度許さないのか、という価値規範の表出」であるから、これは別にどの国でも同じことだ。
私が「被害者のために厳罰を」と口にする人々に批判的な理由のひとつはここにある。
確かに、多くの被害者は厳罰を望む。しかし、国家がその望みを実行して見せるのは、別に被害者のためではない。被害者が殺してくれと言ったって交通事故では死刑にならないし、被害者が死刑はやめてくれと言ったって執行する時はする。現に執行してきた。
結局のところ、選択権を握っているのは、被害者でも遺族でも無く、クニである。
だから「被害者の望み通り、国家が加害者に厳罰を下す」図は、一見すると被害者のために国家が動いているように映るが、そんなわけは無い。言ってみれば、被害者の望みと、国家のたくらみが(少なくとも実行行為において)たまたま合致したに過ぎない。
被害者感情だけに目をやって厳罰化を要求することは、国にとってこれ以上ない、好都合な振る舞いだ。


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推奨されているのは「死刑」か? [死刑制度]

死刑事件において、もっとも大きく報道されるのは「死刑が求刑されたのに、異なった判決が出た」もしくは「下級審の判決を覆して、求刑通り死刑判決が出るのか」という話題だ。
一方で、死刑確定や死刑執行のニュースは扱いが小さく、特に執行に関しては、新聞ならベタ記事、テレビならアナウンサーが1~2分程度事実を伝えるだけである。キャスターやコメンテーターが、それについて意見を述べることは無い。
求刑よりも軽い判決が出た場合、つまり、検察=国の思い通りにならなかった場合が最も大きく報道され、ありとあらゆるコメンテーターが検察の主張を追認するわけで、そう考えると「国家を監視する装置としてのメディア」はどこへ行ったんだと思うものの、今回はそれが主題ではないので置く。

私はいつも、この扱いのバランスを見て、「推奨されているのは本当に死刑なのか」と思わずにいられない。
例えば、みのもんたはあれほど過激に死刑を推進し、「一人でも殺したら死んで償うしかない」「死刑は日本の文化」とまで言っているのだから、執行のニュースに対して「いやぁ、日本から凶悪犯がまた一人減りましたね。平和への第一歩です。これからもどんどん執行して欲しい」とか言っても良さそうなものだが、絶対に言わない。というか、死刑執行のニュースに対してコメントすらしない。ちょっと頭の足りないコメンテーターが、一人くらい「執行されて良かった」的な発言をしたっておかしくないのに、そういった言葉を聞いたことも無い。
結局、殺すの怖いんじゃないのか。
少なくとも、実際に人が死んだという事実に向き合う姿勢は微塵も見えない。死刑を煽るなら煽るなりに、その帰結についても責任を持つ必要があると思うのだが。

もちろん、2ちゃんねるを始めとするWEBなど、匿名性の高い分野では、死刑執行に対して賛美する風潮は多少はある。しかし、彼らが賛美しているのも、本当に「死刑」なのか。「人の死」なのか。
アメリカの死刑は、半公開処刑(被害者遺族・加害者家族などが希望する場合、及び一部のメディアは立ち会うことが可能)である。
もし仮に日本がこれをやったら、今のような死刑オッケー!ムードは一変するように思う。実際の死を目の前にして「これで良かった。正義が行われた。」とは言わないんじゃないのか。日本人はもう少し、死に対してナイーブなように思う。
その根拠は、実は死刑の現場とは別のところにある。アメリカは長年にわたり、様々な国と戦争を繰り返している。一方で国内での凶悪事件に対しては、射殺して解決することも多い。つまり、ごく日常的に「正義の名のもとに行われる殺人」を体現している。
しかし、日本は60年以上に渡って戦争をしておらず、国内で凶悪事件が起こっても射殺することは無い。つまり私たちは体験的に「正義の名のもとに行われる殺人」を、死刑以外の場面では経験していない。そのことは、かなり奥底のほうで、死生観や正義感に影響しているのではないか。
死刑の「死」がリアリティを持ったとき、今死刑を推奨している人々は、それでも惑うことなく「さっさと死刑にしろ」と言えるだろうか。
その答えが、日本でこれだけ死刑の現場が隠蔽され、隠し通されていることの理由のひとつであるようにも感じる。

<関連>
【アムネスティ 死刑制度の廃止を求める著名人メッセージ「森巣 博」】
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_morisu.html
【映画「絞死刑」オープニング】
http://www.youtube.com/watch?v=mI7vZohLkYo&mode=related&search=
【死刑廃止言説展示室】
http://plaza.rakuten.co.jp/abolitionists/


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「殺すな」と叫ぶことが恐ろしい社会 [死刑制度]

死刑執行に対する抗議デモに参加したときのこと。その数週間前に知り合った女性とたまたま一緒になり、デモ前に雑談をしていた。
「私、デモなんてするの初めてだよ~。大丈夫かな?」と彼女が不安を口にするのを聞いて、この「大丈夫かな」が「上手く出来るかな」を意味しているわけではないことに、すぐ気がついた。それは「非難されないかな」を、もっと言えば「暴力を受けないかな」を意味していた。

デモがあったのは、光市の事件でメディアが「裁判を死刑廃止に利用するとはとんでもない!」と怒り狂った直後。
本当に弁護団が裁判を私的に利用しているのか検証されないまま、弁護士の態度を卑怯であると断定し、こんな奴らは弁護士を辞めさせるべきだとバッシングが起こる。死刑の存廃について正面から議論するのではなく「卑怯な奴らが言ってるから間違ってるに決まってる」という、私に言わせればそれこそ卑怯な論法で、死刑廃止運動が糾弾されて行く。
そんな中で「死刑を廃止しろ!」と街中で叫ぶことは、確かに怖いことだった。

なんだか変な話だと思う。
死刑に対して様々な意見があるのは当然だし、様々な意見がなくてはいけないと思う。その中には当然、廃止運動の思想・方法に対する非難もあってしかるべきだ。
けれど、死刑廃止を口にすること自体が「暴力を受けるのではないか」という不安に繋がる社会は、果たして「安全」なのか。治安が守られていると言えるのか。死刑事件の弁護人に100件を越える抗議(というより脅迫に近い)電話が押し寄せ、脅迫文と銃弾の模造品が送りつけられる現象が、「平和で安全な社会」へと進む前兆だとはとても思えない。

殺人事件は確かに怖い。凶悪事件であれば尚更怖い。
けれど、「人を殺すな」と口にすることが恐ろしい社会もまた、それと同じかそれ以上に、怖い。


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