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解決策が「死ぬか殺す」ベクトルに向かうとき [総論]

昨日、久々に友人と飲みに行った。22歳の友人は、最近不眠症に悩んでいる。そのせいか体調も優れない。
更に話を聞けば、同居している父親が夜騒ぐのを自室で聞いていると、自分でも異常と思えるほどイライラして、殺意すら覚えるという。私が「それ、ほっとくと今度は自分が死にたいって気持ちになるよ」と言うと、彼女は苦笑しながら答えるのだ。「もう、そうなってる。夜はあいつを殺すか自分が死ぬかって感じだよ」

私は10年前の自分を思い返していた。いわゆる「学級崩壊」状態になっている学校に(当時はまだそんな言葉はなかったけれど)私は通っていた。生徒は授業中にウロつき、授業は成り立たず、それを制することの出来ない教師は竹刀を持って授業をし、時には生徒を殴ることもあった。
私はだんだんと精神的に追い詰められ、この苦しさから抜け出すには「担任を殺すか、自分が死ぬか」だと思っていた。眠れない夜に殺人計画と自殺計画ばかりを立てた。
今にして思えば、そんなバカな話はないと思う。他にいくらでも解決方法があるのに、何をやってたんだかって感じである。けれど、窒息しそうな環境を生きていた当時の私にとって、また未熟で理性的な解決を思いつきも知りもしない中、自分がとり得る「解決策」はそれしかないように思い込んでいた。

人生は困難の連続だ。
いじめにしろ多重債務にしろ差別にしろ、自分にとって障壁にぶち当たったとき、それを具体的で建設的な解決方法で終わらせていくことは、とても大切でありながら難しい。人はいとも簡単に「死ぬか殺すか」のベクトルへと思考を向かわせてしまう。ましてや、「死んでお詫びをする」「死んで償う」という死生観のある国で、過ちへの謝罪や、被害への復讐に際して、生命を介在させるのは「文化」ですらあるのかもしれない。つまりは、ハラキリとアダウチ的な思想だ。
私が死刑廃止論者(ロンジャっていうと大げさですが)になった最初の発端は、実は自殺問題である。
なにか問題が起きたときに、死で制裁するという価値観とは何なのか。なぜ多くの人々が、建設的な「殺さず死なない」方法ではなく、死で物事を解決する方向へ行きがちなのか。それを考える内、死刑の問題に出合った。死刑制度は、国家が「死んでお詫びをさせる、殺して復讐を遂げる」ことを公的に容認する制度である。まさに「死ぬか殺すか」の世界なのだ。
世間に死刑推進、悪い奴は殺せの声が広まる中で、殺人と自殺は果たして減っていくだろうか。

私は結局、14歳の半ばから不登校になり、おかげで死ぬことも殺すこともなかった。
あの時は完全に視野狭窄に陥って思考停止していたんだな、弱っていたんだなと感じる。
とすれば、今は社会(と呼ばれる世間)全体が弱体化しているということなのか。

友人には早急に心療内科へ行くよう勧め、時期が来たら、可能な限り家を出るようアドバイスした。何なら一緒に住もうと提案した。
なにがあっても、生き伸びる道はある。


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死を糧にして回る社会 [総論]

さまざまな人の「死」を糧として、社会全体が回っている。

医療と福祉の切捨てを背景に、助けられる病で死ぬ人がいる。
経済の悪化と福祉の切捨てを背景に、餓死する人がいる。
労働条件の悪化を背景に、過労死する人がいる。
差別や偏見を背景に、殺される人がいる。
そして様々な社会状況を背景に、年間3万人の自殺者がいる。

いのちに「再チャレンジ」は無い。

殺人事件の被害者感情を理由して、厳罰化による感情回復がうたわれる。
殺人事件の凶悪化を理由にして、死刑の乱用が推進される。
殺人事件の増加を理由にして、警備と監視が強化される。
テロの脅威を理由にして、軍備強化への準備が進められる。
そして戦争と裁判に市民を引きずり込むことで、「殺さない権利」をも奪う。

これが、「美しい国」なのか。

企業が収益を上げるために、テレビが視聴率を上げるために、国家権力がそれを強化するために、人々を切り捨て、死に追い込み、そして死の悲劇をも利用して、更に社会は回る。
大きな声で「死ぬか殺すか」の二者択一を迫れているのを感じる。
その声の大きさに、猛烈な敗北感が襲ってくる。

それでも。
私は人として、生き残りたい。
殺す側にも殺される側にも、立ちたくない。


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