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セケン様とか、そういうの [総論]

あまり恵まれたネット環境にないので(今日もネカフェです)、サラッと雑記的なものを更新します。
コメントを返せなくてすいません。

橋下弁護士の主張に代表されるように、ネット上では得体の知れない「世間」を名目にした批判が、とても多い。こうした主張をする人は「遺族感情」を名目とした主張をする人とだいたい同じ層のようにも思う。
橋下弁護士のブログにしろ答弁書にしろ、出してくる文書には相変わらず「世間の風」が多用されている。懲戒請求問題で引き合いに出される「世間」が何物であるかについては、モトケンさんのところで非常に適切なコメントを引用していらっしゃるので、一部孫引きしたい。
http://www.yabelab.net/blog/2007/09/26-095640.php
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一方、社会一般と一口に言いますが、この実態はなんでしょうか?
「この事件における社会一般」にはとりあえず法曹は含まれないようです。政治関係者も含まれていないように思います。被告人を罰する前に議論を尽くすべしと考える人も含まれていないようです。この事件にそもそも関心の無い人も含まれていないでしょう。少なくとも私も含まれてはいないようです。

こうやって実態を考えていくと、「社会一般」とは実は「この事件に関心があって、法曹(政治)関係者でもなく、被告人を議論の余地無く厳罰に処すべしと考えるグループ」であるようです。

こんなグループの正義と、日本の平均値の正義が乖離しているのは、考えるまでも無く当たり前なのではないでしょうか。一致するはずがありません。

他方、この(論無く厳罰に処すべし)グループに属する人々は自らのグループ分けを厳密に成すことなく、自らのグループを「グループ:(日本-法曹関係者)」と表現しているような節があります。
 論に言及するときは異論を挟む人間や無関心な人々を排除しながらも、勢力に言及するときには排除した人間も含めるという、おかしな形態になっているのです。
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で、つい5分ほど前に「あぁ、そうか」と気がついたのは、私がこうした「世間は~」論に強い違和感を持つ根源に、きわめて個人的な人生経験からくる感情があることだ。
私はずっと「世間様」から阻害される立場にあった。
その「世間」は時に「正義」や「常識」を名乗るわけだが、身体障害者で学校にも行かず母子家庭で育ち、10代の頃に同姓と付き合ったこともある私は、いつもその枠からはみ出し、「世間様」や「常識」に繰り返し糾弾されて来た。
例えば「身体障害のある人ほど純粋で頑張り屋」との「常識」からはみ出して「同情できない」と言われ、「学校に行って当たり前」との「常識」からはみ出して「甘えてるだけの怠け者」と言われ、「両親がそろっていて当たり前」との「常識」からはみ出して「愛情を知らない人間に育つ」と言われ、「女は男(だけ)に惹かれる」との「常識」からはみ出して「同性愛なんて異常だ」と言われた。
ありとあらゆる「正義」と「常識」から、そしてそれらの言葉を発する「世間様」から、私はいつだって零れ落ち、それ故に攻め立てられてきた。
その結果、10年にわたって「自分に生きる価値なんてない」「私みたいなやつがいるから社会がダメになるんだ」と妄想的なまでの自己否定にさいなまれ、自殺願望を持ったり、リストカットを繰り返したりした。
私にとって「正しい世間様」は、いつも私を排除し、殺そうとする何者かだった。

だから死刑制度についても、私は本当は制度そのものよりも、それを支持する「悪いやつは殺されて当然」との「社会的な正義感」にこそ恐怖を覚えているのかもしれない。私は多くの場合、社会的に「悪いやつ」とされる場に立ってきたからだ。
「いつか社会によって排除され、殺されるかもしれない」という恐怖心は、今なお、私にとってリアリスティックで身につまされる感覚であり続けている。


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コメント 3

かに

sasakichさん、こんにちはー!二度目の訪問です。よろしくお願いします。

確かに「社会的な正義感」という旗のもと、一個人を徹底的に打ちのめすという傾向が強いですね、今の日本。いつ、自分がやられる側に立つかもわからないという面もあり、その傾向は、私たちを不安に陥れますよね。今、叩いているご本人様も、いつ叩かれる側になるかわからないのにさ(笑)。それぐらい、「世間の風」なんてコロコロ風向きが変わるものなのに。

「世間」をあまりにも信用しすぎると、手痛いしっぺ返しを食らうかも?

話は少し変わりますが、私は、「世間的常識」から解き放たれるまでは生きることさえ苦しかったですが、解放されたらラクチンラクチン(笑)。お気楽に人生生きております。また、「世間の風」が私を抹殺しようと仮にしても、私はしたたかに雑草のようにたなびいて見せます。はいつくばっても生き残ってやる。なぁ~んて(笑)。

にしても、今の日本は、他人に「完璧」を求める傾向が強いですね。人間は常にきれいに生きられるとは限らないのにね。「おおらかにいきましょう、おおらかに」と思いますけど、世間様はそうでもないようですが、私は私でおおらかでありたいです

ま、あとは「中庸」、これかなぁ。何事にも「極端」からは離れていたいとは思ってます(^^)。
by かに (2007-09-28 19:41) 

るか

こんにちは^^/
先日はコメントありがとうございました。
すごく共感しました。

私は離婚家庭に育ち、担任の先生はこの子(私)と遊ばないように。と学級会で忠告し、いつも孤立して不登校ぎみになりましたが、家でも人生の落伍者と言われて居場所がありませんでした。

中学生のころから、一列に並ばされている世界中の人の中から必要のない人間順に射殺される。という夢をよく見るようになったのですが、いつも最初が私でした。

そのうち障害者にもなり、人並みの能力もなく、幸せも手にはいりません。きっと、世間はその夢のように私をいらないでしょう。

殺せ、殺せの世間の言葉を聞くと胸が苦しくなります。私が言われているようで。

まぁ、それでも「世間」がいらないと思っても、醜態晒してでも生きてやろう、と思うようにもなりましたけれどo(^-^)o
by るか (2007-09-28 21:47) 

sasakich

☆かにさん☆
重ねてのご来訪ありがとうございます。

>「世間的常識」から解き放たれるまでは生きることさえ苦しかったですが、解放されたらラクチンラクチン(笑)。
あぁ、すごくわかります、その感覚!
私も「いい子」になろうとしてた時代はもうなんか色々アレでしたが(笑)、開き直ってというか、それがなんやねん!と思うようになってからは本当に楽ですもん。

>他人に「完璧」を求める傾向が強いですね。
そうですね。年金未納騒ぎにしろ給食費を払わない親にしろ、一つでも落ち度があると徹底的に叩かれるというか。問題の本質よりも「だれが抜け駆けしてるか」ばかりに目が行ってるように思います。


☆るかさん☆
大変な人生を送ってこられたんですね。人のことは言えんけど(^^;
ていうか、なんですかその担任の先生は!! フンガ!
私だったら泣いてしまうか激怒するかですよ。いや、たぶん後者ですけど(笑)

>殺せ、殺せの世間の言葉を聞くと胸が苦しくなります。私が言われているようで。
同じくです。別に犯罪を犯したとかじゃなくても、「死ぬべき人」に自分がカウントされるとだろうという感覚があるので。
格差社会とかいわれて社会から排除される人が増えていると思うのに、一方で排除要求が高まるってのも不思議というかなんというか。自分が理不尽に「いらない」って言われかねないからこそ「俺より悪い奴、いらない奴がいる!」って叫ぶのが自己防衛なんですかねぇ。謎です。
by sasakich (2007-09-30 16:40) 

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