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「理解不能な凶悪犯」が行き着く先 [死刑制度]

ドキュメンタリー映画監督である土本典明は、長年に渡って水俣病の問題を追い続けてきた。その作品の中に、こんなシーンがある。
水俣病被害者の代表であった川俣輝夫が、加害者であるチッソの社長(当時)に救済措置を約束させるため、長時間かけて説得する場面だ。川俣は重役たちの並ぶ机の上に座り込み、社長に向かって正面から問いかける。
「あんた趣味は何ですか? (読書との回答に対して)そうやって本を読んで感動したり、そういうことと、今私たちの苦しさは何も繋がらんとですか? 関係なかとですか?」
このシーンを見て、私は不思議な気持ちになった。感動、というのとは少し違う。なんだか妙に郷愁めいた感情が私の中でうずまいた。「いつの間に、こんなに遠くへ来たんだろう」。そんな言葉が思い浮かぶ。
前著の問いは、被害者である川俣さんから加害者であるチッソ社長への「あんたも人間だろう、人間なら俺たちの苦しみが分かるだろう」との痛切で悲痛な問いかけである。社長としてのアナタではなく、役職としてのアナタではなく、読書を趣味としている人間であるあなたへの、心の奥深くへ問いかける言葉である。
それがとても衝撃的なのは、こんな被害者と加害者の関係が今はありえないと思うからだ。
先日、初公判のあった秋田連続児童殺害事件の裁判でも、検察側は初回の審理から遺族感情を持ち出し、「遺族は(同種の)犯罪抑止のために死刑を望んでいる」ことが紹介された。死刑存置による犯罪抑止能力は証明されていないし、そんなことは検察だって知っているはずだが、それでも、被害者感情を理由として出すことが、確実に「厳罰を求めるための有効な戦術」になってきている。

加害者も人間である、との想像力が失われて久しい。
凶悪犯罪や重大な企業不祥事を前にしたとき、当事者も傍観者も「同じ人間なのに、何故」ではなく「こんな酷いことをした奴は、人間ではない」と考えるようになった。
もちろん、被害者自信に加害者への想像力を持てなどとは言わないし、言えない。そんなことは他人が口出しすべきことではない。
けれど、例えば金日成や麻原に対して「あなたも人間なら、家族を奪われた悲しみが分かるでしょう」とは、被害者はもちろん世間の誰一人として、問いかけなかった。彼らの暮らしぶりや趣味趣向がいかに報道されようとも、そこに人間性の発見など微塵もない。何故なら、だれも彼らに人間性など期待しないからだ。彼を人間だなどと思いたくないからだ。
薬害エイズの時には、まだ「人間であり医師でもあるあなたが、何故こんなことをしたのか」という問いが成立したように思う。
それからわずか数年、おそらくはオウム以降でこの問いは無効になった。私たちには理解しがたい動機から、想像もつかないような凶悪犯罪が生まれたとき、「同じ人間なのに」との前提はもろくも崩れ落ちた。「奴らは人間じゃないんだから、理解なんてできないし、しなくていい」と、いつの間にか、ものすごい速度でそういうことになって行った。
そして更に数年後、少年Aの事件を皮切りに、こどもまでもが「理解不能な殺人鬼」として認識されるようになった。

人間ではない存在に、更正の道はない。なにしろ人間ではないのだから。
じゃあ、どうするか?
永久的な悪とされた存在に「殺せ」の言葉が出てくるのは当然のことだ。そして、これまでに無い頻度で死刑判決が出ようとも、死刑が執行され続けようとも、それに異を唱える者は減り、むしろそうした「断固決然」たる態度が歓迎される。
人の命を大事にしなかった奴の命は大事じゃない、との認識が大勢を占め、殺せ吊るせを叫ぶ人々が急激に増加した。今や、多くの殺人事件において、かつては予想し得なかったほど安易に「死刑」のニ文字が登場する。
社会が複雑化し、生活形態や考えが多様化する中、私たちの周囲に「理解できない人」は増える一方だ。そうした人々が罪を犯したとき、そこに更正の余地などあるのかと疑問に思うのも無理はない。そして、その疑問が誤りであるとの確信もまた、私には無い。
しかし忘れてはならないのは、私たちもまた、別の誰かからすれば充分に「理解できない人」になり得ることだ。理解できないからと言ってあらゆる可能性を模索せず、とにかく殺すしかないと決断していくなら、その決断はいつか自分にも襲い掛かってくるだろう。


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コメント 4

DH

こんにちは。

>人の命を大事にしなかった奴の命は大事じゃない、との認識が大勢を占め、殺せ吊るせを叫ぶ人々が急激に増加した。

「殺せ吊るせを叫ぶ人々」は昔も決して少なくなかったのではないかと想像します。ただ、最近は犯罪被害者遺族の方々がみずから声を上げることが多くなってきたこと、マスコミ等もそのような声を従来より積極的に取り上げるようになったこと、などにより御指摘のような印象を持たれている部分もあるのではないでしょうか。

かつて犯罪被害者(遺族)にできることと言えば、大人しく傍聴席に座っていることぐらいしかなかったように思います。誰にもまともに相手をしてもらえなかった。どなたかが指摘していましたが、言わば「犯罪被害者が発見された」結果であるとも言えるのでしょう。

仰るように金日成等も人間であることは間違いありませんから、彼らの命などどうでもいいとは思いません。
が、

>あなたも人間なら、家族を奪われた悲しみが分かるでしょう

それがわかるくらいであれば、そもそも拉致などしないでしょうし、自国民の命ももっと大切にするはずです。


>理解できないからと言ってあらゆる可能性を模索せず、とにかく殺すしかないと決断していくなら

確かにそのような姿勢は好ましくないと思います。いつか自分に跳ね返ってくるという御指摘もその通りだと思います。

ただ、私は仮に制度としての死刑は廃止されるべきであるとしても「加害者自身の生命が奪われても仕方がないような重大な犯罪行為は確かに存在する」と考えています。「人を殺せば即死刑」などと主張しているわけではありません。
by DH (2007-09-16 11:28) 

sasakich

DHさん

お久しぶりです。
って、私が休んでたから久しぶりなわけですが‥‥。

>「殺せ吊るせを叫ぶ人々」は昔も決して少なくなかったのではないかと想像します。

確かにそうかもしれませんね。ただ、殺せと叫ぶ被害者がいても、以前はメディアが自制して取り上げなかったし、周囲も止めに入っただろうと思います。それは、少なくとも表面的な社会の価値規範としては、やられたらやり返す的な応報は「気持ちは分かるけど、倫理的には望ましくない」とされていたからでしょう。
それが昨今、仰るように(重罰を望む)犯罪被害者が「発見された」こともあり、表立って吊るせ殺せを叫ぶ人が増えたと私には見えます。
吊るせ殺せと「思っている」ことと、それを「言葉にして実行を司法に求める」ことは別であり、表立って厳罰を要求する人々が増えたことが、現在の重罰化に繋がっていると感じます。

>>あなたも人間なら、家族を奪われた悲しみが分かるでしょう

>それがわかるくらいであれば、そもそも拉致などしないでしょうし、自国民の命ももっと大切にするはずです。

私も、金日成が人の命の大切さや、拉致被害者の悲しみを理解しているとは思いません。
ただ、誰一人としてその可能性を模索せず、(結局は理解できないとしても)人間なのだから理解して欲しい、理解するべきだ、とすら考えなくなった=可能性を全否定したことが問題だと思うのです。

>ただ、私は仮に制度としての死刑は廃止されるべきであるとしても「加害者自身の生命が奪われても仕方がないような重大な犯罪行為は確かに存在する」と考えています。「人を殺せば即死刑」などと主張しているわけではありません。

このエントリーはDHさん個人へ向けて書いたものではないので、「私は~~主張しているわけではありません」と言われても、ちょっと困ってしまうのですが(笑)
by sasakich (2007-09-16 12:55) 

abc

はじめまして。
今村弁護士のページからやってきました。

人間らしい素朴な疑問を論理性をもって考察し、素晴らしい文章で表現されてる文章の数々に感動しました。
お友達になって欲しいです(笑)。

私も(おそらくsasakichさんと近い感覚だと思うのですが)
昨今特にネット上に氾濫している、想像力の欠如、可能性の全否定になんとなく暗いものを感じています。

具体的には
「いつ自分が裁かれる状況になるかわからない。」「明日は我が身」
「今自分が知っているが相手の全てではないかもしれない」「自分が全て知っているわけではない」
「相手との共通了解が出来るかもしれない」

みたいな感覚を抜きにして

「話してもわからない奴もいるんです」
「死には死を」

なんて"簡単に"言い切ってしまえる風潮に対してです。

※余談ですが、そんな人が日本の伝統を云々しているのも不思議な感覚です。
「相手の立場に立つ」というのは八百万の神を信じる(相手もまた神であるかもしれない)日本では伝統的にあった(と言われる)感覚なのですけれどね。

とにかく、安易な思考停止や無分別が、(それぞれに悪意がなくても)大きな争いと禍根の元となりえそうで不安なのですが

>理解できないからと言ってあらゆる可能性を模索せず、とにかく殺すしかないと決断していくなら、その決断はいつか自分にも襲い掛かってくるだろう。

こういうことを信じて生きていくしかないかなぁ、と思いめぐらしています。
by abc (2007-09-21 08:45) 

sasakich

abcさん

初めまして。来訪&コメントありがとうございます。

悩み考え抜いた末、それでもどうしても「やっぱり理解できん」「あいつとは共存できん」ということは、あって当然だと思うんです。共存できん=殺すしかない、という方法になるかは別として。
ただ相手を殺すほど「絶対無理」と判断するなら、"簡単に"結論を出すことは危険だし、少なくとも熟考する責任があるのではないかと思います。

>※余談ですが、そんな人が日本の伝統を云々しているのも不思議な感覚です。

こちらも余談ですが(笑)、平安時代には死刑が事実上の廃止状態にあったことを考えると、今の「断固決然な勇ましい感じ」は武士文化以降の影響なのかな、と個人的には考えています。
美しい国系の人々が言う「日本の伝統」は、ほとんど武士文化的なものを指しているので、その意味では適切というかなんと言うか。
by sasakich (2007-09-21 17:51) 

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