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自殺を「語ることのできる死」へ [自殺]

以前ほどではないにせよ、自殺の話題は未だに「タブー」とされている。今でも、実際には自殺による死を、表向きは病気や事故によるものだとしておく事は多いし、オープンな場所で自殺の話題が語られる事は少ない。
このことには、いくつかの問題がある。一つには、自殺が隠蔽される事で「なぜ死に追いやられたのか」を社会が検証出来なくなり、対策・予防策を考える事が難しくなる。もう一つは、遺族がその苦しみや痛みを周囲に話すことが出来ず、自分ひとりで苦痛を抱えむことで今度は遺族が自殺を考えたり、そこまで行かなくても、癒されること無く長い時間を生き続ける。
遺族の多くは、自分の体験を語り、家族の自殺による死を自分なりに理解する事で、納得は出来なくても受け入れ、進んでいく事が出来るとされる。逆に言えば、話すこと自体を禁じられてしまえば、疑問や怒りや悩みを自分だけで抱え込み続け、癒されること無く、苦しみの中で日々を送る。
自殺を減らすためにも、自死遺族が生きていくためにも、自殺が「語ることのできる死」になる事が必要だ。

しかし、その道は険しいものかも知れない。何より、自殺以前に「死」を語ること自体が、私たちには習慣として無い。その作業はどこか、後ろめたさや罪悪感がついて回り、「死」について語ること自体が生命を軽んじているのではないかと思わせる。
だが、「死」についてオープンに話せる事と、命を軽んじることは別である。むしろ、命を大事だと思えばこそ、「死」について積極的に語る必要があるだろうし、「死」から出来る限り多くのことを学ばなくてはいけないだろう。

ドキュメンタリー「ブリッジ」は自殺問題を扱ったアメリカ映画である。サンフランシスコに架かるゴールデンゲートブリッジは、観光名所であるとともに、世界有数の自殺の名所でもある。本作は飛び降り自殺の瞬間を何度もとらえ、残された人々と、生存者へのインタビューで綴られている。
この作品には賛否両論ある。自殺の瞬間を何度も捉えていることで、「撮影している時間があるなら助けられなかったのか」との疑問や、仮に止めることが不可能だったとしても、それを「興味本位」で撮影・放映して良いのか、と批判が出ているのだ。
確かに、「興味本位」で人の死の瞬間を撮影し、それを表現手段に利用することは規範的に許されないだろう。
しかしだ。 例え監督が映画を取らなくても、ゴールデンゲートブリッジで人々は自殺していく。私たちが見ようと見まいと、自殺者は現に毎年、出る。私たちがそれを見つめることすらしなければ、そりゃ私たちは心地いいかも知れないが、自殺問題は一向に進まない。
そうした姿勢は、ことによっては更に自殺の増加を加速させ、遺族が癒される機会を奪う。

今まさに死のうとしている人々を前に、何も出来ないほど辛いことは無い。もしも、死んだ人がいることすら知らなければ、私たちは不快な思いをせず済むだろう。何も出来なかったことへの無力感を持つことも無いだろう。だが、そうした姿勢が自殺を減らすことも、当然ながら無い。
それが辛い現実であっても、いや辛い現実だからこそ、見つめることでしか「本当の心地よさ」はやって来ないのではないか。

<関連>
ドキュメンタリー映画「ブリッジ」
青い空の彼方 -自死遺族の心の癒しを求めて-


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